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一ノ谷の戦いとは?数々の逸話を残した合戦の全容をわかりやすくご紹介

『平家物語』の見せ場のひとつでもある一ノ谷の戦い。

この合戦は、以仁王の挙兵以降、台頭しつつあった源氏と、勢力を盛り返しつつあった平氏の間でおこなわれた戦いです。

互いに今後の行く末を左右する大事な一戦。かける思いは尋常でなかったでしょう。

今回はそんな一ノ谷の戦いの全容を解説。合戦の場所から今に伝わる逸話まで、わかりやすくご紹介します。



一ノ谷の戦いの場所は?

一ノ谷の戦いは、当時の摂津国福原および須磨でおこなわれました。

この地域は現在でいうところの兵庫県神戸市兵庫区や中央区、須磨区あたりを指します。

一ノ谷の戦いまでの経緯

まずは一ノ谷の戦いに至るまでのいきさつから簡単にお話しします。

以仁王の挙兵

保元の乱、平治の乱以降、栄華を極めていた平氏。一門のなかから官位に就く者が増え、「平家にあらずんば、人にあらず」と言えるほどの世をつくりました。

しかし、朝廷内には平氏のこの専横に不満を持つ人が続出。後白河法皇も平氏の権勢を抑え込もうとします。これに対して平氏の棟梁・平清盛は、1179年11月に法皇を幽閉。治承三年の政変を起こします。

その翌年の1180年5月、打倒平氏を考えていた以仁王の挙兵計画が露見します。この挙兵はほどなくして鎮圧されますが、京周辺の寺社勢力や源氏などの蜂起も促してしまいます。

平氏は1181年までの間に、園城寺、興福寺、近江源氏、美濃源氏など、各地の反乱勢力を鎮圧していきました。

養和の北陸出兵と平氏の都落ち

それから2年後の1183年、平氏は北陸の反乱勢力の鎮圧に動き出します。

4月になると平維盛を総大将に大軍を越前国、越中国、加賀国に派遣。養和の北陸出兵です。

当初、平氏軍は火打城で勝利するなど、幸先の良いスタートを切ります。ですが、般若野の戦い、倶利伽羅峠の戦いで源義仲の軍勢に敗北します。

また、その直後の篠原の戦いでも平氏は敗走。結果、義仲軍の入京を許してしまいました。

平氏は義仲が入京する前に京を脱出。比較的、平氏の地盤が強固な西に落ちていきました。

水島の戦いと室山の戦い

都落ちした後の平氏は、最終的に屋島に拠点を置きます。

一方、義仲は京での身の振り方がうまくできず朝廷と対立。微妙な立場となっていました。

1183年9月、後白河法皇は義仲軍を京から出すため、義仲に平氏追討を命じます。義仲はこれに応じて、軍を西に派遣。義仲軍は船を調達するため、備中国水島まで進軍します。義仲自身も播磨国まで出陣しました。

源氏のこの動きを見た平氏は、軍を水島に送り出します。そして合戦をおこないます。この合戦を水島の戦いといいます。水島の戦いは平氏軍の勝利に終わりました。

平氏はその翌月の室山の戦いでも源行家を撃破。結果、福原まで勢力を盛り返すことに成功しました。

源義仲の滅亡

水島の戦いのあと京に戻った義仲は、後白河法皇と完全に決裂します。法皇は法住寺殿の防備を固め、義仲との対立姿勢を見せます。

1183年11月、義仲は法住寺殿を襲撃。法皇方の勢力を駆逐し、法住寺を制圧しました。法皇は幽閉され、政権は義仲側の手に移ります。

しかし、1184年1月に鎌倉から派遣されていた源義経と源範頼が宇治と瀬田を攻撃。この合戦で義仲軍は敗北します。そして、粟津の戦いで敗死しました。

京は義経らによって制圧され、法皇は開放されました。



源平激突!一ノ谷の戦い

前哨戦!三草山の戦い

入京した義経らは2月に入ると、今度は平氏追討のため、西に向かいます。

一方の平氏は福原周辺の防御を固め、迎え撃つ体制を整えていました。源氏軍は軍を二つに分けます。義経が丹波国から、範頼が摂津国から福原に迫ります。

平氏は山の手側から攻めてくる義経軍に対応するため、平資盛や平有盛を派遣。両軍は三草山で対峙します。

地の利を活かして布陣した資盛でしたが、義経は夜襲を仕掛けることでこれを撃退。平氏軍は退却します。

義経は土肥実平に追撃を命じ、自身は福原方面に進軍します。そして、鵯越付近で軍を二つに分け、安田義定と多田行綱を福原に近い夢野口に向かわせます。義経自身はさらに西の塩屋口に軍を進めます。

三草山での敗戦は平氏本営にも伝わり、山の手側の守りには平通盛平教経が派遣されました。

一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い 合戦イメージ

(「一ノ谷の戦い」の布陣のイメージ)

2月7日、源氏軍は平氏軍に攻撃を仕掛けます。

山の手側からは熊谷直実とその息子・熊谷直家、そして平山季重が功を争って先駆け。平忠度が守る塩屋口を攻めます。忠度は直実、直家、季重らを囲み、数でもって討ち取ろうとします。しかし、そこに資盛を追撃していた実平の軍勢が到着。源平両軍は激しく争いました。

一方、範頼軍も攻撃を始め、梶原景時や畠山重忠が平知盛平重衡が守る生田口を攻めます。しかし、知盛と重衡は平氏を代表する武士であり、その守りを簡単に抜くことはできませんでした。この生田口でも源平両軍は激戦となりました。

義経と分かれた義定と行綱も、通盛と教経が守る夢野口を攻めます。義経も塩谷口に近い一ノ谷を急襲します。

源平両軍は各所で激しい攻防を繰り広げます。しかし、徐々に平氏軍が劣勢となっていきます。そして、各所で平氏軍が退却を開始。これに乗じて源氏軍は猛攻を加え、ついに平氏軍は船で屋島に撤退しました。

こうして一ノ谷の戦いは源氏軍の勝利に終わりました。

一ノ谷の戦いの源平両軍の損害

激しい合戦となった一ノ谷の戦いでは、源平両軍かなりの戦死者が出ました。

しかし、名だたる武士の戦死者は平氏軍に多く見られました。

  • 平忠度
  • 平清房
  • 平清貞
  • 平師盛
  • 平知章
  • 平経正
  • 平経俊
  • 平敦盛
  • 平通盛
  • 平教経(壇ノ浦で戦死の説あり)
  • 平業盛
  • 平盛俊

平氏一門の多くが、この合戦で命を落としました。

一方、源氏軍の武士では、

  • 河原高直
  • 河原盛直
  • 藤田行安

が戦死者として名前が出てきます。

実際は多くの武士が戦死したと考えられますが、後世に名前が残るような人物ではなかったのかもしれません。

源氏軍では武士よりも、兵士の戦死者が多かったといわれています。

一ノ谷の戦いのその後

一ノ谷の戦いが終わったあと、源氏は四国・九州在地で平氏に味方する武士の討伐に動き出します。

一方、平氏は屋島で体制を整えつつ、源氏のこの動きに対処するため、知盛を彦島に派遣。源氏軍の九州行きを阻みます。

そんななか、義経がひそかに四国に渡り、屋島の戦いに進むことになります。



後世に残る一ノ谷の戦いのエピソード

一ノ谷の戦いには、数多くのエピソードが今に伝わります。ここでは、その内容をいくつかご紹介します。

河原高直と河原盛直の戦死

源氏軍の戦死者として挙げた高直と盛直は武蔵の国の郷士でした。

しかし、無名に近く、一族の将来のために、何とかして一ノ谷の戦いで功を立てたいと思っていました。

二人の兄弟は範頼配下の武士として出陣。知盛と重衡が守る生田口を攻めます。功を焦る二人は平氏軍が構築した逆茂木を飛び越え、小高い所から矢を射かけ、名乗りを上げます。

ところが、平氏軍はただ二人の姿を眺めているだけでした。じつはこのとき、後白河法皇から休戦の達しが届いていたため、平氏軍は警戒を緩めていました。

それでも高直と盛直は功を立てたい一心から矢を射込んできます。すると、平氏軍のなかでも強弓として知られていた真名辺五郎が矢を二本放ちます。その矢によって二人は討ち取られてしまいました。

様子を見ていた知盛は、「あたら、こんな剛の者も殺さねばならぬのか」と、嘆いたといわれています。

だまし討ちをくらった平盛俊

平氏軍のなかでも剛の者として知られていた平盛俊は、味方が総崩れとなると、逃げることができないと判断。馬を止めて敵を待っていました。

そこにやってきたのが、東国でも指折りの剛の者・猪俣範綱です。腕に自信がある二人は、互いに組み合います。勝負はすぐにつきました。盛俊が範綱を組み伏せたのです。

盛俊は範綱の首を切ろうとします。そのとき範綱が助命を乞います。哀れに思った盛俊は範綱の言葉に一瞬隙を見せます。

その一瞬の隙をついて範綱は、盛俊を組み伏せ、そのまま首を切ってしまいました。盛俊はだまし討ちによって、その命を散らしてしまったのです。

平敦盛と熊谷直実

一ノ谷の戦いでは、平氏のうら若い公達も命を落としました。

その一人が平敦盛です。敦盛は防衛陣が突破され、味方が退却を始めると、自身も海上に逃れるため、海に向かいます。

そのとき、源氏側の武士に声をかけられます。息子・直家と平山季重とともに、平忠度が守る塩屋口を攻めた熊谷直実でした。

「そこの武士、逃げるのは卑怯だ、引き返して戦え」

敦盛は、引き返して直実と対峙します。

しかし、直実は東国でも屈指の武勇の士。あっという間に敦盛を組み伏せます。

直実が首を切ろうと敦盛の兜を取ると、そこには自分の息子である直家と同じくらいの年齢をした公達の顔がありました。

直実は哀れに思い、敦盛を逃がしてやろうとします。

ところが、敦盛は

あなたにとってはよい敵です。首を取ったあとに周りの人たちに聞いてみてください。きっとわかるはずです。

と答え、そのまま直実の刃にかかって生涯を閉じました。17歳でした。

敦盛のこの死は、直実の心に大きな影響を与え、出家する原因になったといわれています。

父のために命を散らした平知章

源範頼と対峙していた平知盛は、各所の防御陣が破られ、全軍総崩れになると、息子・平知章と郎党とともに海上に退却します。

しかし、源氏軍の児玉党に追いつかれ、刃を交えます。その戦いの最中、児玉党の大将が知盛に組み付きそうになります。そこに知章が割って入り、組み合います。

知章は児玉党の大将を見事討ち取ります。ところが、周りを源氏軍に囲まれて、ついに討ち取られてしまいました。16歳だったと伝わります。

知章が時間を稼いでいる間に知盛は海上に逃れることができました。

知盛は

息子を助けない親があろうか

と、涙を流したといわれています。



小宰相の入水

平通盛と、その妻・小宰相は仲睦まじい夫婦でした。一ノ谷の戦い前夜も、二人は通盛の陣で時間をともに過ごしました。

合戦当日、源氏に敗れ、撤退してくる平氏軍。しかし、そのなかに夫の姿はありませんでした。

小宰相は通盛が討ち死にしたことを聞いていましたが、もしかしたら誤報かもしれないと、その帰りを待ち続けました。

そのとき、滝口時員という通盛の従者があらわれます。彼は通盛が討ち死にしたことと、最期の様子を小宰相に伝えます。その報告を聞いた小宰相は泣き伏してしまいました。

船が屋島に到着する夜、小宰相は周りの者が寝静まった頃を見計らって起き上がります。そして、念仏を唱えたあと、船から海に身を投げました。

船にいた人たちは、暗い海のなか小宰相を探します。ようやく見つけ、引き上げられたとき、小宰相はすでに息絶えていました。

小宰相の乳母は通盛の鎧を着けて、泣く泣く海に沈めて葬ったといわれています。なお、このとき小宰相は通盛の子どもを身籠っていたと伝わります。

小宰相のこの最期に人々は「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と感心したそうです。

源義経の逆落とし

鵯越から一ノ谷まで進軍した源義経は、平氏軍の背後にある崖から奇襲することをた思いつきます。

しかし、その崖は急峻でとても馬で降りられるようなところではありませんでした。

そこで義経は試しに馬を何頭か落としてみました。すると、途中で足を折る馬もいましたが、無事に下まで降りられた馬もいました。

それを確認した義経は馬を乗り入れ、崖を下ります。その姿を見たほかの武士たちも遅れを取ってはならないと次々、崖を降りていきます。

こうして義経の逆落としは成功しました。背後からあらわれた源氏軍に平氏軍は混乱。海上に撤退を始めました。

この義経の逆落としは後世、一ノ谷合戦の有名なエピソードとして知られることになりました。その一方で、逆落としは『平家物語』の創作という認識が一般的となっています。

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