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平通盛とは?小宰相との説話が有名な平家の公達の一生

平通盛は平安時代末期の武士です。

平教盛の嫡男として1153年に生まれました。

弟には平教経、平業盛、忠快、平教子らがいます。母は藤原資憲の娘といわれています。

平氏一門として源氏との戦いに身を投じた通盛。今回はその一生に迫ります。




平氏一門の隆盛とともに栄達

父・教盛の兄である平清盛は、朝廷への影響力が高い人物でした。

清盛は1159年に起きた平治の乱後、朝廷での権力を徐々に高めると同時に、平氏一門を次々と官位に就けるように働きかけました。

その流れを受けて、通盛も幼いときに従五位下・蔵人に就任。年を追うごとに出世していきました。

そして最終的に通盛は従兄の平重盛が国主となっていた越前国の国守まで官職を上げました。

源氏との戦い

ところが時が経つにつれ、興隆を極めていた平氏は徐々に衰退していきます。

特に平氏の大黒柱であった清盛が1181年に死去してからは、後白河法皇をはじめとした反平氏勢力が勢いを増します。

また、伊豆の源頼朝、甲斐の源信義(武田信義)、信濃の源義仲(木曽義仲)など、各地で源氏が蜂起するようになりました。

尾張や三河でも源行家が平氏打倒を掲げ、兵を招集。これに対して平氏は、平重衡を大将に据え、源氏討伐をおこないます。この出兵に通盛も従軍します。

重衡率いる平氏と行家率いる源氏は、墨俣川で対峙(墨俣川の戦い)。この戦いでは平氏軍が勝利を収めました。

その後も通盛は、北陸地方を中心に転戦。反乱鎮圧に尽力しました。

しかし、北陸地方での反平氏が勢いを増し、それに義仲も合流すると、次第に追いつめられるようになります。

そして1181年、「越前水津の戦い」で加賀・越前の国人および義仲配下の根井行親に敗退します。この戦いで負けた通盛は最終的に京まで撤退します。

倶利伽羅峠の敗戦

それから2年後の1183年、通盛は平氏による北陸出兵に従軍します。

この軍では平維盛が総大将でしたが、通盛も大将軍のひとりとして出陣したといわれています。

北陸出兵軍は火打城(燧ケ城)を攻め落とし、越前国まで軍を進めます。これに対して、義仲は今井兼平を派遣。般若野の戦いで平氏を後退させることに成功しました。

その後、両軍は倶利伽羅峠で対峙。通盛は別動隊として、倶利伽羅峠より北方の志保山付近で源行家と戦うことになりました。

通盛率いる別動隊は奮戦し、戦を有利に運んでいました。しかし、倶利伽羅峠に布陣していた本軍が義仲に敗退。撤退をはじめます。これに応じて通盛も撤退しました。

一門都落ち

倶利伽羅峠の戦いで敗戦した平氏は、その後も義仲に敗退し続けます。

義仲のその勢いに立て直しが難しいと判断した平氏は、西国へ逃れることを決意します。このとき、京に戻っていた通盛も一門とともに西国に向かいます。

その後、九州・大宰府を追われ、一門が到着したのは四国の屋島でした。平氏はここで、勢力を盛り返すべく態勢の立て直しを図ります。




一ノ谷の戦いと通盛の最期

平氏が屋島に拠点を置いてしばらくしてから、義仲が平氏追討のため、西国へ進軍してきました。

平氏は水島で義仲軍を迎え撃ち、これを撃退。義仲軍は京へ撤退します。通盛もこの水島の戦いに従軍していました。平氏は水島での勝利の勢いで福原まで勢力を盛り返します。

しかし、今度は義仲を打ち破った源義経が平氏追討のため、西へ進軍してきます。平氏は福原付近に陣を置き、義経を迎え撃ちます。

この一ノ谷の戦いで、通盛は山の手側を任されていたといわれています。

通盛は開戦から戦い続け、源氏の武士を討ち取るなど大いに活躍したと伝わります。しかし、義経の急襲を受けてから自陣が崩れはじめ、平氏は徐々に海側に敗走します。

劣勢となるなか通盛は、最後まで戦い続け、ついに討ち死にしました。享年32と伝わります。

小宰相とのエピソード

小宰相入水シーンの絵

源平合戦人物伝より引用(「奈良絵本平家物語」より)

通盛には小宰相というパートナーがいました。

通盛と小宰相の仲は睦まじく、一ノ谷の戦い前夜、通盛は小宰相を呼び寄せ、同じ時間を過ごしたといわれるほどでした。

しかし、その幸せは長く続きませんでした。

通盛は一ノ谷の戦いで討ち死に。小宰相はその報告を聞くと、屋島の海に身を投げたといわれています。

小宰相のその最期に、後世の人々は、

忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫を更(か)えず

と語り合ったといわれています。

ちなみに、二人の供養塔は現在、隣同士で安置されています。

小宰相と通盛の供養塔の画像

源平合戦人物伝より引用(「小宰相・平通盛供養塔」、願成寺」)

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