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平資盛とは?女流歌人との愛を育んだ平家の公達の一生

平資盛は平安時代末期の武士です。

1161年、平清盛の嫡男・平重盛の次男として生まれました。

兄弟には平維盛平清経、平有盛、平師盛、平忠房などがいます。

平氏の公達として生涯を送った資盛。いったいどのような一生だったのでしょうか。

本記事でご紹介します。




一門の栄達とともに出世

平家一門は「保元の乱」「平治の乱」で功績を立てて以来、官位を得る人たちが増えていました。

資盛もこれに漏れず、1166年には幼少ながら従五位下、越前守になります。

その後も一門の栄達とともに出世し、平氏の世の恩恵を受けました。

殿下乗合事件

ところが1170年。資盛が10歳の頃、ある事件が起こります。

それが「殿下乗合事件」です。この事件は、資盛が藤原基房の牛車が通るときに下馬の礼を取らなかったことが原因で起こりました。

基房一行はこのとき、資盛の無礼に怒り、資盛一行と乱闘騒ぎとなりました。そして、資盛を馬から落とすなど、恥辱を与えたといわれています。

これに対して資盛の父・重盛が大激怒。武士を派遣し、基房が参内している途上で一行を襲い、従者の髷(まげ)を切ったり、牛車の簾(すだれ)を落としたりしました。

最終的には基房と重盛の間で和解があったようですが、この事件によって平家の権勢を恐れる人、その驕りを非難する人たちがあらわれるようになりました。

歌人としての側面と恋愛

平資盛の画像

源平合戦人物伝より引用(「平資盛画像」、赤間神宮蔵)

平家一門の貴族的な生活の影響を受けてか、資盛は和歌に優れた人物に育ちました。

のちに『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』に資盛の歌が載せられたことからも、その和歌の実力をうかがい知ることができます。

また、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平徳子)に仕えていた女流歌人・建礼門院右京大夫と恋愛関係にあったとも。

二人の愛は深く、このときの資盛との恋愛に関して、右京大夫はのちに『建礼門院右京大夫集』にまとめました。

平重盛の死と都落ち

平家の世を謳歌していた資盛でしたが、1179年に重盛が死去。以来、一門のなかで微妙な立場となります。これが関係してか資盛は平家一門とは距離を置き、後白河法皇の近臣として勤めます。

その後、1180年に反平氏の機運が高くなり美濃源氏が蜂起すると、その討伐で叔父・平知盛と出陣。翌年には美濃源氏を撃退することに成功します。

しかし、1183年の倶利伽羅峠の戦いで平氏方が源氏方に敗れると、平家一門は京を捨て西国へ向かうことを決めます。

このとき、資盛は一門とともに西に向かわず、かねてから仕えていた後白河法皇に庇護してもらうことを考えます。ところが、後白河法皇と取り次ぎできず、一門に合流すべく都落ちを決めます。

なお、都落ちの際、資盛は建礼門院右京大夫と密かに会い、以下のような心情を吐露したといわれています。

こういう世の中になったからには、自分の身が儚くなるであろう事は間違いないだろう。そうなったら、あなたは少しくらいは不憫に思ってくれるだろうか。

たとえ何とも思わなくても、あなたと親しくなって長いつきあいだから、その情けで、後世を弔ってほしい。もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めている。そのわけは、それが不憫であるとか、名残が惜しい、あの人の事が気がかりなどと考え始めたら、思うだけでもきりがないであろうから。

心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないから、今後は何事も思い捨てて、どこの海にあってもあなたのところへ手紙を出したりするまいと決心しているので、おろそかに思って便りもしないとは思わないで下さい。

万事、もう今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれば以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。

引用:『建礼門院右京大夫集』新潮日本古典集成




源氏との戦いと平資盛の最期

京を離れた平家一門は九州で態勢を立て直そうとします。

このとき、資盛はもともと重盛に仕えていた緒方惟義の説得工作を任されます。しかし、説得に失敗し、一門は大宰府を追われてしまいます。そんななか、弟の清経が豊前国柳ヶ浦で入水。資盛は嘆き悲しんだといわれています。

その後、屋島に拠点を置き、源氏と「三草山の戦い」「一ノ谷の戦い」「藤戸の戦い」「屋島の戦い」と合戦を繰り広げます。

資盛は三草山の戦いで指揮官として出陣。弟である有盛や師盛らと源義経と戦いますが、敗北します。

平氏方はこの戦いだけではなく、一ノ谷の戦いや藤戸の戦い、屋島の戦いでも敗北を重ね、最終的に彦島に拠点を移すことになりました。

そして、1185年の「壇ノ浦の戦い」でも平氏方は負けます。最期を悟った資盛は、有盛と平行盛と一緒に入水。25歳という短い一生を終えました。

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