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平知盛とは?一門の最後を見届けた平氏随一の智将の一生

平氏と源氏が家や一族の存続をかけて争った源平合戦。

約5年にわたったこの戦いは、壇ノ浦の戦いをもって終結しました。

かつて朝廷において権勢を奮った平氏。「平家にあらずんば人にあらず」と呼ばれるほど栄華を極めましたが、あえなく西海に散りました。

そんな源平合戦で最後まで平氏を牽引し、源氏と見事な戦いを繰り広げたのが平知盛です。

平氏一門の栄華とともに出世を重ねる

知盛は1152年に、平清盛の四男として生まれました。母は平時子です。

こののち平氏の棟梁となった平宗盛は同母兄で、建礼門院・平徳子、平盛子、平重衡平知度らは弟妹になります。

生まれてから7年後の1159年に従五位下。同年、平治の乱で清盛が勝利すると、翌年の1160年に武蔵守を任されます。

その後、1162年に左兵衛権佐、1166年に右近衛権少将、1168年に左近衛権中将、1178年には丹波権守を兼任するなど出世を続けました。位階も最終的には従二位まで昇りました。

知盛は父・清盛から特に愛され、当時「入道相国最愛の息子」と周囲からいわれるほどでした。知盛も父の期待に応えるように武将としての力量、人間的魅力を備えた人物に育っていきました。

反平氏の狼煙が上がる

平知盛肖像画

源平合戦人物伝より引用(「平知盛画像」赤間神宮蔵)

平氏の権勢に翳りが見え始めていた1180年、以仁王が反平氏を掲げ挙兵します。

清盛はすぐに以仁王と反旗を翻した源頼政の討伐軍を起こします。ほどなく反乱軍は鎮圧されますが、この反旗によって京周辺の寺社勢力の蜂起も促してしまいます。

知盛は、そのうちのひとつであった園城寺の攻撃を任されます。重衡や平維盛らの働きもあり、園城寺の蜂起はすぐに鎮圧されました。

その後、反平氏の動きが強まるなか、清盛は都を福原に移します。しかし、東国で源頼朝をはじめとした源氏勢力が優勢になると、清盛はこれに対処するため再び京に遷都します。

知盛はこのとき、安徳天皇を守護しながら京に入ったといわれています。

近江攻防と美濃源氏の挙兵

1180年12月、知盛は清盛の命により、近江源氏の討伐を任されます。

知盛はこの反乱をすぐに鎮圧する活躍を見せます。知盛に敗れた近江源氏の多くは美濃まで退却し、すでに挙兵していた美濃源氏と合流。再び平氏に対抗します。

年が明けて1181年1月、知盛は美濃源氏の討伐を任されます。この戦いでは両軍ともに多数の戦死者を出しましたが、平氏が合戦を有利に運び、美濃周辺の源氏を鎮圧しました。

知盛は平氏方の大将として優れた武功を立てました。しかしその後、体を崩し大将は重衡に。知盛は療養のため京に戻ることになりました。

平清盛の死と平氏一門の都落ち

知盛が京に戻ってしばらくして、平氏一門の大黒柱であった清盛が死去します。

これ以降、平氏は宗盛の指揮のもとで軍を動かすことになります。宗盛は東国の源氏を追討するため、東に軍を派遣。墨俣川の戦いで源氏を破ります。

また、九州や北陸へも軍を派遣します。このとき知盛は前線に出ることなく、京の守備を任されていました。

それから2年後の1183年、平氏は再び北陸に軍を派遣します。しかし、倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗退。京まで退却します。

宗盛は京に迫る義仲軍に対抗するため、軍勢を各所に派遣します。知盛は重衡とともに勢多に向かいました。

しかし、摂津国の多田行綱が挙兵し、京を包囲する動きを見せると宗盛は都落ちを決断。派遣した軍勢を呼び戻し、西国へ向かいます。知盛もこれに同行します。

平氏軍の指揮官として活躍

京から離れた平氏は海上ルートで九州に落ち延びます。

しかし、九州でも反平氏方の攻撃に遭い、再び海上を漂うことになります。その後、四国の屋島に拠点を構え、そこで体制を整えることになりました。知盛は総指揮官として軍の整備を進めます。

1183年9月、京を占拠した義仲は、平氏討伐のために軍を西に差し向けました。一方の平氏も義仲に対抗するため、軍を派遣します。

場所は備中国水島(現在の岡山県倉敷市玉島)。今に伝わる水島の戦いです。知盛も重衡や平教経平通盛らとともに出陣しました。10月に始まったこの戦いは、平氏方が戦いを有利に進め、大勝します。

そのあとも知盛は、11月に源行家と室山で対峙し、行家軍を退けます。平氏は知盛の指揮のもと、福原まで勢力を広げることに成功しました

なお、知盛は福原を占拠したあと、勢いに乗じて即時上洛する意向を示します。しかし、この考えは宗盛に却下されました。

翌年の1184年1月、前年に義仲を討った源義経、源範頼の軍勢が平氏討伐のため、京を出発します。一方の平氏軍は福原から一ノ谷にかけて陣を構え、源氏軍を迎え撃ちます。一ノ谷の戦いです。

知盛は東の生田口の防備を任され、範頼と対峙しました。平氏は強固な守りを敷いていましたが、山の手側から義経の急襲を受け、全軍総崩れとなります。

知盛は船がある海側に退却します。このとき、嫡男の平知章が知盛を逃がすために囮となり、討ち死にしました。知盛は息子の死を見て、涙を流したといわれています。

壇ノ浦の戦いと平知盛の最期

一ノ谷の戦いで一門の多くを失った平氏は、屋島で再び体制を整えます。敗北したとはいえ、平氏にはいまだ屋島から彦島までの瀬戸内の制海権があったのです。

知盛は彦島に派遣され、そこで九州行きを目指す範頼軍を半年にわたり阻みました。この活躍により、範頼は自軍の士気低下、兵糧不足に悩まされたといわれています。

ところが、九州の源氏方の武士たちが範頼を支援します。この支援のおかげで範頼は九州に渡り、平氏に味方していた武士たちを討伐。結果、平氏は彦島に孤立してしまいました。

また、1185年2月には屋島に拠点を置いていた宗盛が義経の奇襲を受け敗北。残った軍をまとめて彦島に逃れてきます。

それからすぐの1185年3月、壇ノ浦の戦いが始まります。知盛は軍事面の総大将として全軍の指揮を取ります。

当初、平氏軍は潮の流れを利用し、戦いを有利に進めていました。しかし、潮の流れが変わったこと、四国・九州の武士たちが寝返ったことにより、徐々に劣勢となっていきます。

そしてついに敗北が決定的に。平氏一門は次々と入水していきます。知盛はその様を最後まで見届けたあと、海に身を投げました。享年は34と伝わります。

碇を体に巻いた。鎧を二枚つけた。また、「見るべき程の事は見つ」といって入水した。乳兄弟である平家長とともに海に身を投げた。と知盛の入水には、さまざまな説話が残されています。

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