宇治川の戦いとは?合戦までのいきさつからわかりやすくご紹介
宇治川の戦いは平安時代末期の1184年に起きた合戦です。
場所は現在の京都府の南部に流れる宇治川。そこで源義仲軍と源義経・範頼軍が争いました。
今回はそんな宇治川の戦いの全貌に迫ります。
宇治川の戦いまでのいきさつ
まずは、宇治川の戦いまでのいきさつを簡単におさらいしましょう。
源義仲の孤立まで
北陸で行なわれた一連の戦いで平氏を蹴散らした義仲。そのまま京にいた平氏も一掃し、威風堂々と入京します。
はじめは京の治安維持などで期待されていた義仲でしたが、皇位継承に首を突っ込んだり、配下の兵士が乱暴狼藉を働いたり、期待されていた治安維持活動が遅れたりしたため徐々に後白河法皇をはじめ、朝廷の人たちから信頼を失い、孤立していきます。
極めつけは平氏追討のための「水島の戦い」の敗戦でした。この敗戦によって義仲の立場はさらに不安定なものに。後白河法皇も源頼朝を頼りはじめました。
後白河法皇の幽閉
義仲が平氏追討のため、西国に下っていた頃、後白河法皇は頼朝に近づきます。
頼朝に従五位下の位を与え、東海道・東山道の支配を認め、京に上るように求めていました。これを知った義仲は、すぐに京に戻ります。
京に戻った義仲が知ったのは、後白河法皇が院御所だった法住寺殿(ほうじゅうじどの)の守りを固めているということでした。
危うくなった自分の立場を回復するため、義仲は法住寺殿を攻撃し、そのまま後白河法皇を幽閉。政権を掌握しました。
しかし、これがより一層、義仲の孤立を深めることになります。
源義仲追討
義仲のクーデターを知った頼朝は、弟の義経と範頼に「義仲追討」を命じます。
義経と範頼は京に近づくと、軍を2つに分けます。義経は宇治川方面に、範頼は瀬田方面に進みます。
頼朝側のこの動きに対して義仲は、宇治川には義仲四天王の根井行親と楯親忠、さらには叔父・志田義広を、瀬田の唐橋には義仲四天王の今井兼平を派遣。義仲自身は御所を守ることにしました。
宇治川の戦い
宇治川を挟んで対峙した義仲軍と義経軍。その戦力差は大きく開いていました。
じつは義仲軍の兵士は、平氏と戦った水島の戦いや京での孤立が影響して、その数が激減していたのでした。入京当初は数万いた軍勢は、この頃には1000にも満たなかったといわれています。
対して頼朝軍には、義経を大将に2万5000もの軍勢がいました。義仲軍は宇治川にかかっていた橋を壊し、川のなかには網を張って防戦します。
しかし、数が多い義経軍はじきに宇治川を渡河(とか)しはじめ、義仲軍に攻め込みます。そして、そのまま宇治川に布陣していた義仲軍を突破し、京へと攻め上がるのでした。
源義仲の最後
宇治川を突破し、京へと攻め込んだ義経軍は、後白河法皇を開放するため、御所へ向かいます。
御所を守っていた義仲は防戦にあたりますが、じきに旗色が悪くなり、東へ退却をはじめます。
このとき、義仲は後白河法皇を伴って撤退しようとしますが、義経軍によって阻まれたといわれています。
東へ退却した義仲は、瀬田で範頼軍と戦っていた兼平と合流しようとします。一方の兼平も義仲が敗走したことを知ると、瀬田から軍を退却させます。
義仲と兼平の2人は、粟津の地で合流しました。
義仲は北陸へ退却しようとしますが、すでに近くまで進軍していた範頼軍と衝突します。義仲は兼平をはじめ、残った軍勢でもって範頼軍と戦います。
勇猛で知られる義仲軍でしたが、数で勝る範頼軍を前に徐々に兵士は倒れていきます。
そして、義仲はこの戦いのなかで流れ矢が顔面に刺さり、討ち死に。それを見た兼平も自害しました。
ここに義仲と頼朝の戦いは、終結を迎えました。
宇治川の戦いの説話
宇治川の戦いでは、義経軍の梶原景季と佐々木高綱の両名が先陣を競いました。
この出来事を「宇治川の先陣争い」といいます。宇治川の先陣争いは後世、絵に描かれるなど、とても有名な説話として伝わりました。