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源為朝とは?保元の乱で活躍した平安時代最強の武士の一生

日本史には最強と謳われる数多くの武勇の士がいます。

今回取り上げる源為朝も、そんな最強の武士の一人として知られています。しかし、為朝は32歳という若さで世を去ってしまいます。

当時から強弓の士といわれた為朝。どのような一生を送ったのでしょうか。

為朝の生涯から今に残る伝説までご紹介します。




源為義の八男として誕生

為朝は河内源氏の棟梁・源為義の八男として1139年に生まれたとされています。母は摂津国江口(現在の大阪市東淀川区江口)の遊女。つまり、為朝は為義の庶子でした。

※庶子:本妻ではない女性から生まれた子ども

のちの平治の乱で平清盛に敗れる源義朝の弟で、のちに平氏を滅亡させる源頼朝、源義経の叔父にあたります。

為朝の何よりの特徴はその体格にありました。身長は2m以上。左腕は右腕より12cm長かったと伝わります。

これはあくまで伝説ですが、もしかしたらほかの人より大きな体格をしていたのかもしれません。それにより、弓を引きやすく、強弓でも簡単に使いこなせたと考えられます。

そんな為朝は幼いときからとにかく乱暴者でした。ほかの兄弟に対しても傍若無人な態度を取っていたといわれています。

この性格が災いして13歳のとき、為義から勘当され九州の豊後国に追放されてしまいます。

九州追放後、鎮西総追捕使を称する

源為朝像

源平合戦人物伝より引用(『武者鑑』より、国立国会図書館所蔵)

九州に追放された為朝ですが、その性格が直ることはありませんでした。

為朝は自ら鎮西総追捕使を名乗り、九州各地で暴れまわります。原田氏や菊池氏といった在地の豪族たちと合戦をしたり、城攻めをしたりしました。結果、3年の間で九州を平定したといわれています。この頃、鎮西八郎と名乗ったと考えられています。

九州の諸氏は、為朝のこの暴状にたまらずついに朝廷に訴えます。事態を重く見た朝廷は1154年、為朝に出頭の宣旨が出されます。

しかし、為朝はこれを無視。九州から動こうとしませんでした。ところが、1155年に父・為義が責任を問われて解官されます。

それを聞いた為朝はついに京に上ることを決めます。武勇を誇る士を連れ立って京に向かいました。




保元の乱で活躍

1156年、鳥羽法皇が崩御すると、政権を巡って崇徳上皇と後白河天皇の間で対立が生じします。両陣営にはさまざまな武士が集まり、武力衝突は避けられない状態になりました。

為朝は父・為義に従い、崇徳上皇方に味方します。一方、兄・義朝は後白河天皇方につきました。為本は軍議で夜討ちを提案します。

しかし、藤原頼長がこれを却下。崇徳上皇方は興福寺の援軍を待つことになりました。為朝は後白河天皇方が夜討ちをしてくることを予見しました。

その夜、後白河天皇方が夜討ちをしかけてきます。崇徳上皇方の貴族たちは為朝を宥めるために除目をおこない蔵人に任命します。

ところが為朝はそれを拒否。白河北殿の南側、賀茂川に近い西門の守りにつきます。攻め手は清盛勢でした。まず、清盛の郎党・伊藤景綱と、その息子である伊藤忠清・伊藤忠直兄弟が西門に迫ります。

為朝は強弓を引き、矢を放ちます。その矢は忠直の体を貫通し、忠清の鎧の袖に刺さるほど凄まじいものでした。それを見た清盛は退却し、別の門を攻めます。

この際、清盛勢の山田伊行という剛の者が為朝に矢を射かけますが、逆に射落とされてしまいます。また、清盛の長男・平重盛も勇んで西門を攻めようとしますが、清盛に制止されました。為朝はたった一矢で清盛勢を退けることに成功します。

続いて西門を攻めてきたのが、兄・義朝でした。義朝は馬上なら東国武士のほうが上手であると考え、攻撃をしかけます。この際、鎌田政清、深巣清国、大庭景義が為朝によって退けられたり、討ち死にしたりします。

奮戦する為朝ですが、もともと数に劣っていたため、徐々に劣勢になっていきます。また、義朝が火攻めを実施したことで、敗北は濃厚となりました。

為朝は父・為義に東国に落ちて再起を図ることを提案します。しかし、為義は出家し、投降することを決めます。

為朝はこれに従わず逃亡し、近江国坂田(現在の滋賀県坂田郡)に潜みます。ですが、そこで湯治をしているときに密告され、源重貞(佐渡重貞)に捕縛されました。

京に送られた為朝は、その武勇が惜しまれ、伊豆大島に追放となりました。この際、肘の筋を切られ、もう強弓を引けないようにされたといわれています。

伊豆大島や八丈島など伊豆七島を支配する

源為朝幽閉の小屋

源平合戦人物伝より引用(源為朝が幽閉されていたという小屋)

伊豆大島に送られた為朝は、肘の回復を待ちます。

そして、傷が癒えて弓を引けるようになってからは、再び暴威をふるい、八丈島や青ヶ島まで勢力を拡大します。

伊豆七島は為朝の支配下に置かれました。

源為朝の最期。墓はある?

伊豆介の工藤茂光はこれを重く見て、朝廷に追討を訴えます。そのうえで、伊東氏、北条氏、宇佐美氏らの追討軍を編成し、伊豆大島にいる為朝に迫ります。

しかし、為朝はこの追討軍と交戦しませんでした。自邸に戻り、大島で生まれた息子・源為頼を刺殺したあと、そのまま自害しました。1170年のことだったと伝わります(尊卑分脈では1177年に没したとされています)。

伊豆大島に碑が建てられていますが、墓の場所は未詳です。

源為朝伝説。子孫は琉球王?

武勇の士として名を残した為朝は、伊豆大島が攻められたとき、船で琉球に渡ったという伝説があります。

追討を逃れて琉球に着いた為朝は、大里按司の娘との間に子を儲け、その子が初代琉球王・舜天になったという説話です。この話は、琉球王国の正史『中山世鑑』に記されていますが、真偽はわかっていません。

また、当時から為朝が琉球に渡ったという話はあったようで、鎌倉幕府の援助によって創建された建仁寺には「為朝が琉球に渡り建国の主となる」と記述された文献があるといわれています。




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