• HOME
  • 合戦
  • 平将門の乱とは?短期間で平定された反乱の全容をわかりやすく解説

平将門の乱とは?短期間で平定された反乱の全容をわかりやすく解説

平安時代中期。京から遠く離れた東国の地で、一人の男が反乱を起こしました。

その男の名は平将門──。

将門は武力をもって坂東(関東地方)諸国を制圧。自らを「新皇」と名乗り、東国において独立政権を打ち立てました。

今回は、そんな平将門の乱についてご紹介します。

平将門の生涯年表

できごと
935年2月将門と源扶らが争う。国香死去。
935年10月将門と叔父・平良正が争う。
936年6月将門と叔父・平貞兼、良正および国香の嫡男・平貞盛が争う。将門は争いを優位に進める。
936年中?月貞兼、良正、貞盛らは朝廷に将門の非を訴え、将門追討の官符発行を上表する。朝廷は将門を京に召喚する。
937年4月頃朱雀天皇の元服が重なり、大赦を受けて無罪に。将門は東国に帰還する。
937年8月頃将門は貞兼、貞盛らと争い敗北する。
937年?月将門は朝廷に貞兼、貞盛らの追討の官符発行を上表する。官符が出された後、将門は貞兼や貞盛らとの争いを優位に進める。
938年2月頃貞盛が朝廷に将門追討の官符発行を上表する。朝廷をこれを認め、将門追討の官符が発行される。将門は朝廷の処置を不満に思い、東国に戻った貞盛らと争う。
939年2月頃興世王と源経基・武藤武芝の諍いに介入し、調停を模索。しかし、経基の誤解から、将門謀反の報告が朝廷になされる。
939年5月朝廷に解文を送り、自らも上京。謀反は事実無根だと弁明する。
939年?月常陸国の住人、藤原玄明を庇護する。常陸介の藤原維畿が玄明の身柄引き渡しを求めるが、将門は拒否する。維畿を攻め、国印と国府の鍵を奪う。
939年12月数千の兵を率いて下野国と上野国を攻める。また、太政大臣である藤原忠平に軍事行動を弁明する文を送る。さらに、武蔵国や相模国を制圧する。この頃に「新皇」を称する。
940年1月朝廷より将門追討の官符が出される。藤原忠文が征夷大将軍に任命され、東国に下向する。貞盛と藤原秀郷が将門を討伐するため出兵する。
940年2月貞盛と秀郷に対抗するため出兵するが敗北する。軍を立て直し再び争うが、劣勢の中、流れ矢に当たり討ち死にする。首は京に送られ、晒し首となる。

【要約】平将門の乱をわかりやすく簡単に!
事の発端は、常陸国の住人であった藤原玄明(はるあき)が、対立していた常陸介の藤原維畿(これちか)に対抗するため、将門を頼ってきたことでした。将門は自身を頼ってきた玄明を保護しましたが、そんな将門に対して維畿は玄明の身柄の引き渡しを要求。しかし将門はこれを拒否し、逆に常陸国を攻め、刻印と国富の鍵を奪います。この行動によって、将門は朝廷への反乱を示すことになりました。その後、将門は下野国や上野国、武蔵国、相模国も制圧。関東において自身の勢力圏を広げていきます。そして、東国の八国を制圧後、王城建設に取り組み、「新皇」を称しました。しかし、かねてから対立していた平貞盛や、藤原秀郷らとの合戦で討ち死に。平将門の乱は平定されました。

平氏一族との争い

935年、常陸国の平真樹が将門のもとに、源護との土地を巡る争いの調停を依頼してきました。真樹と護は領地が隣接していることもあり、たびたび土地に関係する争いを起こしていました。将門は真樹の依頼を承諾し、常陸国に向かいます。935年2月のことでした。

しかし、常陸国に向かう将門を護の子、源扶や源隆、源繁の兄弟が襲撃します。将門はこれを迎え撃ち、扶や隆、繁らの兄弟を討ち取ります。この争いは、将門の叔父であり、護の娘婿でもあった平国香の領地にも及びました。国香は争いに巻き込まれる形で死去。この出来事がきっかけで、将門は国香のほかに護の娘婿となっていた平良正と対立するようになりました。

935年10月、良正が将門を討つために兵をあげます。良正の出兵を聞いた将門も、すぐに出陣。両者は常陸国で争い、最終的には将門の勝利で終わりました。将門と平氏一族の争いはこのあとも続きました。

936年6月、将門は、良正の要請を受けて争いに介入した平良兼や、国香の嫡男・平貞盛らと合戦をおこないます。この戦いでも将門は勝利し、良兼と貞盛を下野国の国府まで追い詰めます。しかし、将門は国府を攻めることなく、自分の領地に戻りました。

■平良兼
良兼は国香や良正と同じように、護の娘婿の一人でした。ですが、将門が源氏一族と対立してからも、良兼は積極的に争いに介入しようとしませんでした。良正に支援を依頼されてからは、反将門勢力の中心となり、将門と激しく争うようになりました。

■平将門と平良兼の関係性
将門と良兼は、土地や女性が関わる問題により、かねてから不仲だったと言われています。特に女性問題については、良兼の娘が将門の妻であり、その妻に関係することと考えられています。

反乱の萌芽

連なる山

それからも東国では、平氏一族の骨肉の争いはおさまりませんでした。将門に敗れた貞盛らは、朝廷に将門討伐の上表をしました。これを受けて朝廷は将門を京に召喚します。ですが、将門が弁明に努めたこと、朱雀天皇の元服が重なったことにより大赦を受けます。無罪となった将門は、937年4月頃に東国に帰還します。

937年8月頃、将門は再び貞盛らと争いを起こします。しかし、この争いは将門の敗北に終わります。すると、今度は将門が朝廷に貞盛らの非を訴え、追討の官符を発行するように上表します。朝廷は将門の上表を認め、貞兼・貞盛らの追討を命じる官符を発行しました。朝廷の力を利用した将門は、東国での情勢を有利に進めていきました。

938年2月頃、劣勢となっていた貞盛らは、朝廷に再び将門の非行を訴えます。この訴えが通り、朝廷は将門追討の官符を発行しました。この処置に不満を持った将門は、徹底抗戦の構えを見せ。官符を持った貞盛らとぶつかります。将門は貞盛らに勝利し、その勢力を削ることに成功しました。

朝廷への反逆

その後、将門は興世王と源経基・武藤武芝らとの間で起きた諍いに巻き込まれ、朝廷に謀反を疑われます。このときも将門は上京し、謀反はありえないことだと弁明に努めました。朝廷は将門への疑いを晴らし、逆に密告した経基を罰したと言います。

朝廷からの疑念が晴れて領地に戻った将門のもとに、常陸介の藤原維畿(これちか)と対立した藤原玄明(はるあき)が逃れてきます。玄明は将門に後ろ盾になってもらうことで、維畿に対抗しようとしたのでした。

一方の維畿は、玄明の身柄を引き渡すように将門に迫ります。ところが、将門はその要求を拒み、維畿を攻めます。常陸国の国印と国府の鍵を奪い、自身の支配下に置いた将門。この時点で、朝廷への反逆を示すことになりました。

939年12月、続いて将門は数千の兵を従えて下野国と上野国を攻めます。ここでも国府を制圧し、常陸国のときと同様、国印と国府の鍵を奪い、国司を追い出しました。その後、武蔵国や相模国も制圧。東国八国を支配下に置いたあと、王城を建設し、自らを「新皇」と名乗るようになりました。

反乱の終結

朝廷では将門の反逆を受けて、藤原忠文を征夷大将軍に任命し、将門追討を命じます。940年1月のことです。忠文は将門を討つべく、軍勢を率いて東国に下向します。

それと同じ頃、貞盛が下野国の藤原秀郷とともに将門討伐の軍を起こします。940年2月、将門は貞盛と秀郷に対抗するため、出陣します。両軍は激しく激突します。当初、有利に戦を進めていた将門でしたが、徐々に劣勢となり、退却します。

貞盛と秀郷は、その勢いのまま将門軍を攻めます。拠点を移しながら対抗していた将門は、最終的に島広山(現在の茨城県坂東市岩井)で貞盛と秀郷の軍勢を迎え撃ちます。

ここでも将門は戦を有利に進めていましたが、貞盛・秀郷軍が勢いを盛り返したことで劣勢に。その最中、将門は飛んできた鏑矢に当たって討ち取られてしまいました。将門の死によって合戦は集結。将門の首は京に送られ、晒されました。

朝廷から派遣された忠文が東国に着く前に平定されるほど、将門の乱は短期間のものでした。

参考文献

平将門の叛乱について
日本経済史学者・松好貞夫氏が執筆。平安時代中期に起きた平将門の反乱について、朝廷に反逆した経緯から詳しく記載されている。また当時、政治の中心だった朝廷と東国の関係性から、反乱が起きた社会的背景に迫る。そのうえで朝廷の権威が及びにくい地方の軍事組織の存在が後世、武家の興隆を可能にしたのではないかという指摘をする。

ほかの記事はこちらから