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中尊寺金色堂に眠る奥州藤原氏四代のミイラ

岩手県西磐井郡平泉町に建つ中尊寺金色堂。

創建当初の姿を伝える荘厳な意匠が凝らされた御堂は今も多くの人を惹きつけます。

そんな金色堂には平安時代に活躍したある偉人の遺体が安置されています。

奥州藤原氏の初代・藤原清衡、二代目・藤原基衡、三代目・藤原秀衡、そして四代目・藤原泰衡です(このうち泰衡の遺体に関しては頭部のみ)。

1950年と1994年、それぞれの遺体が調査されます。この記事では、その遺体調査の結果、奥州藤原氏に関して何がわかったのかご紹介します。




奥州藤原氏四代の遺体の状況

遺体運搬

引用:中尊寺HPより

遺体はミイラ化しており、組織などが残っているものもあったといわれています。

遺体の損傷は初代・清衡が一番ひどく、基衡や秀衡、泰衡の遺体は比較的、良好だったそうです。

そのミイラ化した遺体を調査すると、以下のことが明らかになりました。

人物血液型身長特徴・副葬品
藤原清衡 AB型161cm保存状態が悪い。副葬品は紫絹の枕、銀・琥珀の数珠、太刀・小刀・金塊。
藤原基衡 A型168cm副葬品は白絹の枕(稗入り)、水晶の数珠・刀。
藤原秀衡 AB型160cm最も保存状態がいい。副葬品は木の枕、泰衡の首の桶。
藤原泰衡 B型不詳顔に9ヶ所の刀傷、額にさらし首の釘跡あり。

なお、泰衡の頭部については当初、首桶に「忠衡」と書かれていたことから、頭部は藤原忠衡のものだと思われていました。

しかし、顔面部分に傷があり、釘で打たれた形跡もあることから、首桶に入っていた頭部は処刑された人物のものである可能性が高いと推測されました。

その結果、この頭部は源頼朝によって死後にさらし首にされた泰衡のものであると考えられ、今に至ります。

なお、遺体の写真は以下のブログに掲載されています。

>>日本の人骨発見史5.中尊寺藤原氏四代のミイラ

奥州藤原氏は現代京都人に近かった?

その後、1994年の調査で遺体の再検証がおこなわれました。

この調査の結果、奥州藤原氏は近世アイヌ人や鎌倉時代人より、現代京都人に近い骨格をしていることが確認されました。

また、初代・清衡と三代目・秀衡は蝦夷系の血筋が濃かったのに対して、二代目・基衡は貴族的な血筋が濃かったことも指摘されたそうです。




遺体がミイラになった原因

1950年の調査では、遺体のミイラ化は自然になったものだと考えられました。

一方、学者のなかには、ミイラは人工的につくられたもの、という説を唱える人もいました。

しかし、1994年の調査では、やはりミイラ化は自然に発生したもの、という結論が出されました。

これには、遺体が安置されていたところは偶然、ミイラ化しやすい環境だったことが関係しているようです。

平安時代に栄華を誇った奥州藤原氏。その当主たちの遺体は今も中尊寺に納められています。

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