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富士川の戦いとは?戦わずして勝敗が決した合戦の全容

富士川の戦いは、1180年11月に平氏と源氏の間でおこなわれた戦いです。

治承・寿永の乱において起きた合戦の一つとして知られています。

今回は、この富士川の戦いの全容をご紹介します。



富士川の戦いまでの流れ

まずは、富士川の戦いが起こるまでの流れからチェックしていきましょう。

以仁王の令旨

1180年、平治の乱以降、伊豆の蛭ヶ小島において流人生活を送っていた源頼朝のもとに、以仁王からの令旨が届きます。

その内容を簡単に言うと「平氏打倒のための挙兵」を呼びかけるものです。この令旨は、頼朝のほかにも、諸国の大寺社や源氏に送られたといわれています。

源氏の再興を夢見ていたといわれる頼朝。通常ならこの機会をチャンスと考え、すぐに挙兵するでしょう。

しかし、頼朝は以仁王の令旨が届いても、すぐさま兵を起こすことはありませんでした。

挙兵するきっかけとなったのは、以仁王が敗死したあと。平氏が令旨を受け取った源氏を追討する動きをはじめてからでした。

つまり、頼朝はそれまで静観していました。

山木兼隆の館襲撃

平氏による諸国の源氏追討を知った頼朝は、このときになってはじめて挙兵を決意し、坂東(今でいう関東)の豪族たちに呼びかけ兵を集めます。

頼朝はまず、伊豆国目代・山木兼隆の館を襲撃し、彼を殺害。伊豆を制圧します。

その後、土肥郷へと向かい、頼朝の呼びかけに応えた三浦一族との合流を目指します。

しかし、頼朝は三浦一族と合流する前に大庭景親や伊東祐親率いる平氏軍と石橋山にて戦うことになります。

石橋山の戦い

頼朝が土肥郷へ進出してきたことを知った坂東の平氏方は、これを迎え撃つことを決定します。

これに対して頼朝も土肥郷から兵を動かします。そして両軍は、石橋山(今の神奈川県小田原市石橋山)で激突します。

一説では、このとき頼朝は300騎、平氏方は3000騎と、歴然とした兵力差があったと伝わります。

この石橋山の戦いで、頼朝は平氏方に大敗します。敗走した頼朝は、真鶴から船に乗って安房国へ向かいます。

安房国から鎌倉入り

安房国へ着いた頼朝は、源氏方についた豪族に迎えられます。

しかし、それでも平氏方と十分に戦える兵力にはなりませんでした。

頼朝は、千葉常胤や上総広常のもとへ使者を送り、参陣を求めます。そして、石橋山の戦いで減った兵力が回復したタイミング(およそ300騎)で安房国を出て、北上を開始。

その途中で、千葉常胤率いる300騎、上総広常率いる2万騎を迎え兵力を増やしていきます。

その後も続々と頼朝に従う豪族たちが一族・郎党を連れて参陣。頼朝が源氏ゆかりの土地・鎌倉に入る頃には、兵は数万騎になっていたと伝わります。

鎌倉に入ったあと、平清盛の命を受けた平維盛が東へ向けて進軍しているという報告を受けると、頼朝は鎌倉を出て西に兵を進めます。

甲斐源氏の挙兵

さて、以仁王の令旨は伊豆だけでなく、甲斐国にももたらされました。

甲斐国には12世紀初頭から甲斐源氏が土着していました。このときの甲斐源氏の棟梁は武田信義。戦国時代最強といわれたあの武田信玄の祖先にあたる武士です。

以仁王の令旨がいつ信義のもとに届き、どのタイミングで挙兵したかは詳しく知られていません。『山塊記』によると、1180年8月頃には甲斐源氏が甲斐国を制圧したとされています。

同月、石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親の弟にあたる平氏方の俣野景久や駿河国目代・橘遠茂らの軍勢と、甲斐源氏の一族・安田義定(信義の弟とも伝わる)の軍勢らが波志田山にて交戦。義定が平氏方を撃退します。

その後、10月頃に甲斐源氏が本格的に駿河へ侵攻し、橘遠茂らを破り、駿河国を制圧します。

駿河国を制圧したあと、信義は進軍してきた平氏軍本軍と富士川を挟んで対峙。富士川の戦いへとつながります。



富士川の戦い

富士川を挟んで対峙した平氏方と源氏方ですが、この戦いは本格的な合戦がおこなわれることなく終結しました。

その理由は、平氏方が撤退したからです。

平氏方は源氏方と戦うにあたり、武士を「駆り武者」と呼ばれる方法で集めました。これは、進軍とともに各地の豪族たちを吸収していく方法です。

しかし、平氏方には予想していたよりも武士が集まらなかったといわれています。『吾妻鏡』によると、富士川で源氏方と対峙した時点で4000騎ほどしかいなかったと伝わります。

さらに、飢饉の影響などもあり、兵糧に乏しく士気も低め。とても源氏方と合戦ができる状況ではなかったと考えられています。

そのため、平氏方は戦わずして撤退したといわれています。

平氏方が撤退したことで源氏方は勝利。駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に置かれることになります。

富士川の戦いにまつわるエピソード

富士川の戦いには、以下のようなエピソードがあります。

水鳥の羽音

富士川の戦いにおける平氏方の撤退劇にはあるエピソードがあります。

それは、平氏方が水鳥の飛び立つ音を源氏方の奇襲だと勘違いして慌てて撤退したという話です。

はたして本当に平氏方は、水鳥の飛び立つ音で撤退を決意したのでしょうか。

このエピソードについては、当時のことを記した各本で触れられています。

  • 源平盛衰記:平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。
  • 平家物語:平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。
  • 山槐記:平家軍は水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に火を放って撤退した。
  • 吾妻鏡:平家の諸将は包囲されるのを恐れていたところに水鳥の羽音がしたので撤退した。

なお、『吉記』では平氏方の撤退理由を「水鳥が飛び立つ音ではなく、敵の軍勢が多かったため」といった記載をしています。

また、『玉葉』でも水鳥の飛び立つ音ではなく、「平氏方の武士が数百騎、源氏方に逃亡したため平氏方は撤退をした」といった趣旨の記載が見られます。

さらに、この逸話については、水鳥の飛び立つ音によって源氏方の夜襲を予想した平氏方は「自軍の状況から対応できないことを悟って撤退した」という見方もあります。

これらのことから、富士川の戦いにおいて平氏方が撤退したことは間違いなさそうですが、その理由が水鳥の羽音にあるのかどうかは謎のままといえますね。

黄瀬川の対面

富士川の戦いの翌日、黄瀬川の頼朝の陣に1人の若武者が訪れ、頼朝との対面を願い出ました。その若武者こそ、のちに壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす源義経でした。

『吾妻鏡』によると、そのとき土肥実平が義経を取り次ぎ、頼朝との対面が叶いました。頼朝は、「かつて後三年の役で源義家のもとに弟の義光が駆けつけた」という故事を引き、涙を流して義経の手を取ったといわれています。

それを見た岡崎義実をはじめとした坂東の豪族たちも涙を流しました。その後、義経は頼朝の指示下に入り、兄・源範頼とともに平氏討伐において活躍したと伝わります。



富士川の戦い以降

富士川の戦い以降、信義をはじめとした甲斐源氏が駿河・遠江を勢力下に置きます。

頼朝は鎌倉に戻り、東国の支配体制の強化を図ります。佐竹秀義、志田義広、足利忠綱らを討って東国の制圧を進めていきます。

一方、平氏方は富士川の戦いで敗戦したことで、各地に潜む平氏打倒の勢力の挙兵を招きます。

それが、全国的な内乱につながっていくことになります。

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