平氏軍壊滅!「倶利伽羅峠の戦い」を合戦の経緯からわかりやすく解説
倶利伽羅峠の戦いは、平安時代末期に起きた「治承・寿永の乱」における戦いの一つです。
「砺波山(となみやま)の戦い」といわれることもあります。
この戦いでは、平維盛率いる平氏軍と、源義仲(木曽義仲)率いる源氏軍が合戦をおこないました。
今回は、そんな倶利伽羅峠の戦いを合戦までの経緯からわかりやすくご紹介します。
木曽義仲の蜂起
1180年4月、以仁王は平氏打倒の令旨を全国の寺社や源氏に送ります。
木曽義仲は、その令旨に応え、同年の9月に蜂起しました。義仲の蜂起に対して、信濃の豪族で平氏方の笠原頼直が義仲討伐に動き出します。
この動きを察したのが、源氏方の村山義直という人物です。彼は同じく源氏方の大法師範覚らと合流し、「信濃国水内郡市原」付近で頼直と合戦をおこないます。
この戦いを「市原合戦」または「善光寺裏合戦」といいます。
両軍一進一退の攻防を続けますが、じきに源氏方が劣勢に。
義直は義仲に援軍を要請。義仲は義直の要請に応え、大軍を率いて救援に駆けつけました。
それを見た頼直は不利を悟ってか軍を撤退させ、越後まで退きます。
そして、越後の豪族で平氏方の城氏が動き出すことになります。
城氏の出兵と横田河原の戦い
年が明けて1181年6月。城氏の棟梁・城長茂が、いよいよ信濃に出兵します。
その数、およそ1万。これに対して、義仲の軍勢は3000ほどだったと伝わります。
両軍は、千曲川が流れる横田河原で激突。このとき、源氏方の井上光盛が奇策を講じます。
平氏方の軍旗である赤旗を用いて千曲川を渡り、長茂の本陣に迫ると白旗に翻し、急襲したのです。この奇策が功を奏し、源氏方は平氏方に勝利。長茂は奥州会津まで退きます。
そして義仲は、越後国府まで進軍し、この地域の実権を握ることになります。
養和の北陸出兵
義仲が横田河原の戦いで勝利し、越後の実権を握った前後、北陸地方の反平氏勢力が活発に動き出します。
そして、1181年の夏頃。平氏方は、北陸地方の反平氏勢力を鎮圧するために、平通盛と平経正を追討使として派遣します(養和の北陸出兵)。
しかし、通盛率いる平氏方は敗退し、京へと退きます。敗退した平氏方は再び北陸へ出兵しようとします。
ですが、「養和の大飢饉」や「大嘗祭(だいじょうさい)」などがあったことにより、北陸地方への再出兵がおこなわれたのは1183年に入ってからでした。
平維盛の出陣と火打城(ひうちじょう)の戦い
北陸地方への再出兵に際して、平氏方はおよそ10万騎の大軍を用意します。
総大将は平維盛。そのほか、平行盛や平知度など平家一門総出で北陸地方へ向かいます。
維盛は越前に入ると、まず火打城(燧ケ城)を攻めます。火打城には義仲軍6000余騎が入り、平氏方を迎え撃ちました。
火打城の堅城ぶりに、はじめは平氏方も攻めあぐねます。
しかし、義仲軍側に内通者が出たことにより戦いは平氏方が有利に。その後、火打城は陥落し、義仲軍は越中国に撤退しました。
進軍する平氏を撃退!般若野の戦い
火打城を制した平氏方は、平盛俊に兵5000を与えて越中国に進軍させます。
対する義仲は、このとき越後の国府にいましたが、平氏方が越中国を制する前に迎え撃つことを決めます。
義仲は、まず今井兼平に兵6000を与えて先遣隊として越中国へ派遣。派遣された兼平は、平氏方より早く越中国に入り、呉羽山に布陣します。
それに対して盛俊は、倶利伽羅峠を越えて越中国へ入ると、般若野まで進軍。そこで兼平が呉羽山を占拠していることを知ると、般若野で進軍を止めます。
その様子を聞いた兼平は、夜襲をかけることを考えます。そして、盛俊が般若野に着いた翌日の明け方、盛俊軍を攻撃。
盛俊軍は善戦しましたが、その日の夕方ごろに退却をはじめます。その後、義仲は般若野の戦いに勝利した兼平と合流し、倶利伽羅峠に向けて進軍します。
倶利伽羅峠の戦い
維盛は般若野で盛俊が敗走したこと、義仲が倶利伽羅峠に向かっていることを知ると、砺波山と志保山に布陣します。
義仲は平氏方のその動きを見て、砺波山に義仲本軍、志保山に源行家と軍を2つに分けて進軍しました。
ここで義仲は、平氏方への夜襲を決めます。昼間は平氏方の油断を誘うため、たいした合戦をしなかったといわれています。
義仲は夜になると平氏方にバレないように距離をつめます。それと同時に、樋口兼光を平氏方の背後に回り込ませます。
そして、鬨の声や法螺貝、太鼓を打ちならして一気に攻勢をかけます。驚いた平氏方は浮足立ち、後退しようとします。しかし、背後を兼光におさえられているため、退くことができません。
平氏方は大混乱となり、唯一敵軍のいない方向に後退します。ですが、その先はきりたった崖でした。のちに「地獄谷」と呼ばれる崖です。
夜ということもあり、視界が限られているため、平氏方の将兵は次々と地獄谷に転落していきます。
倶利伽羅峠は一瞬にして阿鼻叫喚の嵐に。近くを流れる川には、平氏方の将兵の血や膿が混ざります。その川は、のちに「膿川(うみがわ)」と呼ばれるようになりました。
維盛も命からがら戦場を離れます。10万騎の軍勢は、その大半が失われました。平清盛の七男・知度も戦死します。
また、志保山では優勢だった平氏方でしたが、倶利伽羅峠の戦いを制した義仲本軍からの援軍によって劣勢となり退却。
ここに義仲は平氏方に完全勝利し、越中国の制圧に成功しました。
倶利伽羅峠の戦いに勝利した義仲は、そのまま平氏方を追撃し、加賀国の篠原で追いつきます。
そこでも散々に平氏方を打ち破り、一気に京へと進軍。ときを同じくして、平氏方は安徳天皇や一門を引き連れ、西国へと落ちていきます。
「倶利伽羅峠の戦い」における説話
さて、義仲軍の大勝利に終わった倶利伽羅峠の戦い。義仲の夜襲が功を奏した形となりました。
『源平盛衰記』によると、義仲はこのとき、ほかの戦術も使ったと伝えられています。それが「火牛の計」です。
伝わっている話としては、義仲は500頭ほどの牛の角に松明をくくりつけ、敵に突撃させたということです。
これにより、平氏方は大混乱に陥り、次々と地獄谷から転落していったといわれています。
この話が本当かどうか今ではわかりませんが、倶利伽羅峠の戦いにはこのような説話があることを知っておくと、また別の面白さを感じられるでしょう。