多田行綱とは?一ノ谷の戦いで活躍した多田源氏の棟梁の一生
多田行綱は平安時代末期の武士です。
多田頼盛の嫡男として生まれました。生年は未詳といわれていますが、『兵範記』の記述から1143年に誕生したと考えられています。
平氏の興隆から滅亡までを見てきた行綱。どのような一生を送ったのでしょうか。
本記事でご紹介します。
元服から鹿ケ谷の陰謀
行綱は1153年、藤原基実のもとで元服しました。
それから4年後の1157年には基実の前駆(※)に加わります。
※前駆(ぜんく):行列を騎馬で先導する人
1177年、平氏全盛のなか反平氏方が鹿ケ谷でひそかに平氏打倒の陰謀を企てます。
行綱もこれに参加。このとき、藤原成親から反平氏の大将を依頼されます。
しかし、行綱はこの陰謀を平清盛に密告。反平氏方は行綱の裏切りによって捕まり、平氏方への反乱は失敗に終わります。
反平氏方が次々と処罰されるなか、密告した行綱本人も安芸国に流刑になったといわれています。
反平氏方として
1183年、以仁王の令旨を受け取り木曽谷で蜂起した源義仲が京の都に迫ります。
義仲のこの動きに行綱も同調。摂津・河内で船による物資輸送を阻み、平氏に打撃を与えることに成功します。
平氏が都落ちしたあとは、後白河法皇より平氏が持ち去った剣璽(※)の安全確保を命じられます。
※剣璽(けんじ):三種の神器のうち「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」をあわせた呼び方
法住寺合戦
ところが同年の11月、義仲と後白河法皇は対立。義仲は後白河法皇の御所であった法住寺を攻撃します。
このとき、行綱は後白河法皇に味方し、法住寺で義仲軍と戦います。しかし、義仲軍に敗れ、自国の多田庄に撤退。そこで籠城し、義仲に対抗します。
一ノ谷の戦い
法住寺合戦で勝利した義仲でしたが、その後、源頼朝が派遣した源義経らの軍勢に敗退。粟津で命を落とします。
義仲を滅ぼした頼朝はつぎに平氏打倒のため、義経らを西国へ向かわせます。義経らは軍を二手に分け、東側と山側から一ノ谷に陣を敷く平氏を急襲する作戦を取ります。
行綱は山側の軍勢に参加。一番に山手側を落とすなど、大きな武功を立てたといわれています。
その後の多田行綱
一ノ谷の戦いからしばらくして、平氏は壇ノ浦で滅亡します。
その翌年、行綱は頼朝から多田庄を没収されます。これには、義経と懇意にしていたこと、頼朝が源氏の本拠地・多田庄を欲したことが関係していると考えられています。
同年、頼朝と対立した義経は船で西国へ落ちようとします。行綱は義経のこの逃避行を事前に察知。河尻で義経一行に矢を浴びせかけます。
行綱のこの行動には、功を立てて多田庄を取り戻そうという思惑があったといわれています。
ところが、義経の反撃に遭いながらも逃避行を妨害した行綱でしたが、その後も多田庄を取り戻すことはできませんでした。
行綱のその後の消息は不明とされています。