• HOME
  • 合戦
  • 墨俣川の戦いとは?合戦までのいきさつからわかりやすく解説

墨俣川の戦いとは?合戦までのいきさつからわかりやすく解説

平氏を滅亡させた源平合戦。

約6年にわたるこの戦いでは終始、平氏が負け戦を繰り返したイメージがあります。

しかしなかには平氏が勝利した合戦もありました。今回ご紹介する墨俣川の戦いも、そのうちのひとつ。この戦いで平氏は源氏を打ち破ることに成功します。

そんな墨俣川の戦いはどのように進められたのでしょうか。この記事では平氏が勝利し、源氏が大敗を喫した墨俣川の戦いについてわかりやすく解説します。



富士川の戦い

まずは合戦が起こるまでのいきさつから見ていきましょう。

1180年11月、平氏と源氏は駿河国(現在の静岡県)を流れる富士川を挟んで対峙します。世にいう富士川の戦いです。

この年、源氏は平氏追討を掲げ各地で挙兵。特に伊豆の源頼朝、甲斐の源信義(武田信義)など平氏の管理が比較的あまい東国の源氏勢力は、日を追うごとに軍の規模を増やしていきました。

平氏はこれを見過ごせず源氏討伐軍を東国に派遣。甲斐から駿河に侵攻していた信義と富士川で対峙したのでした。(頼朝は富士川のさらに東を流れる黄瀬川まで進軍していたといわれています)

ところが平氏は兵がうまく集まらなかったこと、東国武士の勇猛さを恐れたことから合戦をせずに撤退。富士川の戦いは両軍が刃を交えることなく終結しました。

この合戦の結果によって平氏は美濃源氏、尾張源氏、近江源氏の蜂起も促してしまいます。しかし平知盛平資盛平通盛らの活躍もあり、近江源氏は1180年内に、美濃・尾張源氏は1181年1月に鎮圧されました。

再度出兵

1181年4月、美濃を制圧した平氏は東国の源氏を追討するため、再び軍を進めます。

対する源氏は源行家が美濃・尾張周辺の源氏を集め、進軍してくる平氏を待ち構えます。

このとき行家は頼朝をはじめとしたほかの源氏の麾下に入ることなく、自分独自の勢力をつくる目的で兵を集めたといわれています。(頼朝から派遣されたという説もあり)

平氏は墨俣川まで進軍すると西側に陣を設けます。そして周辺の荘園から徴発した船の到着を待ちます。

一方の行家は平氏の渡河を防ぐため、墨俣川の東側まで進軍。そこに陣を設けます。

こうして両軍は墨俣川を挟んで対峙することになりました。



墨俣川の戦い

墨俣川の戦い 布陣図

(「墨俣川の戦い」の布陣のイメージ)

墨俣川で対峙した平氏と源氏。

兵力は平氏がおよそ3万、源氏が5千ほどでした。この歴然とした戦力差を埋めるため、行家は夜陰に紛れて川を渡り、平氏の陣に奇襲することを考えます。

平氏に気づかれずに川を渡る源氏。しかし奇襲は失敗に終わりました。

平氏が濡れている兵が源氏であると気づいたからです。

平氏は一気に源氏に攻撃をしかけます。この戦いで源氏は、頼朝の異母弟である源義円や尾張源氏の源重光、大和源氏の源頼元といった一門を失います。また行家の次男・源行頼も平氏に捕まります。

行家本人は墨俣川から熱田まで撤退。そこで軍勢を立て直し、再び平氏と戦いますが、勢いを止められず、最終的に三河国(現在の愛知県東半部)の矢作川まで退きました。

そこで頼朝が軍勢を率いて迫っているという偽情報を流し、平氏の追撃を止めたといわれています。

墨俣川の戦いのその後

墨俣川の戦いで敗北を喫した行家は、独自の勢力をつくることができず、頼朝のもとに身を寄せます。

しかしほどなくして頼朝との関係が悪化し出奔。行き場を失った行家は源義仲のもとに走りました。

一方、墨俣川の戦いで勝利した平氏は、北陸地方の反乱勢力の鎮圧に乗り出すことになります。

ほかの記事はこちらから