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平敦盛とは?眉目秀麗で笛の名手として伝わる平家の公達

平敦盛は、平安時代末期の武士です。

平清盛の弟である平経盛の末っ子として1168年に生まれました。

兄に平経正平経俊がいます。

平家の公達として

敦盛が生まれたときは、ちょうど平家全盛の頃でした。

平家一門が朝廷において次々と出世。のちに「平家にあらずんば、人にあらず」という言葉が出てくるほど、平家の興隆はめざましいものでした。

その恩恵は敦盛にももたらされます。敦盛は、生まれてから6年後の1174年~1178年まで若狭守に任じられたといいます。また、時期は未詳ですが、五位に叙されもします。

敦盛は平家の公達として、順風満帆な生涯を送るはずだったのです。

平家の都落ち

1183年、平家は源義仲の攻撃により、西国へ落ちることを決めます。敦盛もこれに同行し、ほかの一門とともに京を離れました。

平家一門は、はじめ九州へ落ちていきます。しかし、そこで源氏方の攻撃に遭ったため、四国の屋島に本拠地を移し、そこから京奪還をうかがうことになります。

その後、平家を追討せんと進軍してきた源義仲軍を「水島の戦い」で撃退。一度は都を追われた平家でしたが、福原あたりまで勢力を盛り返すことに成功します。

一ノ谷の戦いと敦盛の最期

源平合戦人物伝より引用(「敦盛」菊池契月筆、京都市美術館蔵)

1184年、平家を追い落とした義仲が、源頼朝から派遣された源義経・範頼と戦い敗死します。

すると、今度は義経と範頼が平家追討を任され、西国へ下ってきます。福原あたりまで勢力を盛り返していた平家は、徹底抗戦の構えを見せます。

この戦いを「一ノ谷の戦い」といいます。敦盛も、この戦いに出陣します。

範頼率いる源氏軍は当初、平家の固い守りに攻めあぐねます。ですが、義経が山路から迂回し、平家軍の側面から奇襲をしたことで、その固い守りは崩れていきました。

源氏軍が優勢となった戦場では、平家軍の名だたる武士が次々と討たれていきます。生き延びた者たちも、船で海上に退却します。

敦盛も海上に逃れるために船へ向かいます。しかし、そこでひとりの武士が声をかけます。熊谷直実です。

直実は敦盛に、

「そこの武士、背中を見せて逃げるのは卑怯だ。引き返して戦え。」

といいます。敦盛はこの言葉に従い、馬を返して直実のもとへ向かいます。

直実は東国でも指折りの強さを誇る武士です。敦盛はあっという間に組み伏せられます。直実は、首を取ろうと敦盛の兜を外します。

ですが、自分の息子である熊谷直家と同じくらいの年齢で、まだうら若く、美しい容姿をした敦盛を見て、哀れに思います。直実は、敦盛を逃がしてやろうと思い、名乗るようにいいます。

ところが敦盛は、

「あなたにとってはよい敵です。首を取ったあとに周りの人たちに聞いてみてください。きっとわかるはずです。」

と答え、直実の刃にかかって、その生涯を閉じました。17歳でした。

『平家物語』では、このときの敦盛の装いを以下のように記します。

練貫(ねりぬき)に鶴縫うたる直垂に萌黄の匂の鎧着て、鍬形打ったる兜の緒しめ、黄金づくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ籐の弓もって、連銭葦毛なる馬に金の黄覆輪の鞍置いて乗ったる武者一騎

敦盛は、平家の公達らしく、美しい出で立ちで最期を迎えたのでした。

敦盛の最期は涙を誘うシーンとして有名で後世、能などの芸能で題材となることもありました。

笛の名手、平敦盛

さて、そんな敦盛には風雅な一面がありました。

なかでも横笛に長けた人物として知られ、祖父である平忠盛が鳥羽法皇より賜った名器『小枝(さえだ)』(青葉とも)という笛を愛用していました。

その横笛愛は計り知れず、都落ちしたときも肌身離さず持っていたといわれています。

また、敦盛は戦場でも横笛を吹くことがありました。

一ノ谷の戦いにおいても、合戦前夜に笛を奏でていたとも。そして、直実が敦盛を組み伏せたときに、

「あの笛の調べは、この若者だったのか…。」

と、哀れに思ったきっかけになったといわれています。

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