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建礼門院右京大夫とは?恋多き女流歌人の一生

建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた女流歌人です。

宮内少輔であった藤原伊行と箏(そう)の名手といわれた夕霧の娘として伝わります。生没年は正確にわかっていません。

今回は恋多き女流歌人といわれた彼女の一生をご紹介します。




建礼門院の女房として

右京大夫は1173年、建礼門院・平徳子の女房として出仕します。

この宮仕生活のなかで右京大夫は高倉天皇と徳子の美しさに感激し、

雲の上にかかる月日の光みる身の契りさへうれしとぞ思ふ

という歌を詠じたといわれています。

当時、平家は勢力を拡大しているときであり、その力は朝廷にも大きな影響を与えていました。

それにともない、徳子の女房であった右京大夫も平重盛主催の菊合(きくあわせ)で出詠するなど、充実した宮仕生活を送っていたとされています。

平資盛との恋愛

一方、右京大夫は恋多き女としても知られ宮仕生活の間、藤原隆信や平資盛と恋愛関係にあったといわれています。

右京大夫はこの恋愛関係に苦悩の日々を送ります。

ところが、1178年に宮仕を退いたときには隆信との恋愛関係は解消。それ以降、資盛と愛を育んでいきました。




平家滅亡後

1185年、壇ノ浦で平氏が源氏に破れ、滅亡します。

資盛も壇ノ浦の海に入水。愛する人を失った右京大夫は法性寺の僧坊に住み、後半生をその供養にあてることになります。

また、かつて仕えていた徳子の庵を訪問したりします。このとき、右京大夫は徳子のあまりの変わり様を見て、涙を流したといわれています。

その後、右京大夫は1195年ごろに後鳥羽天皇の宮廷に再出仕。さらに七条院にも仕え、1233年ごろまで生存していたと考えられています。

なお、右京大夫は『建礼門院右京大夫集』の作者として知られています。

建礼門院右京大夫集では、藤原隆信と平資盛との恋愛に関する内容が中心となっている一方で、当時の人物のことがうかがい知れる貴重な資料としても活用されているそうです。

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