• HOME
  • 武家
  • 平盛国とは?源頼朝からも称賛された平清盛側近の一生

平盛国とは?源頼朝からも称賛された平清盛側近の一生

平盛国は平安時代末期の武士です。

生年は1113年で、父は平盛康または平盛遠、平季衡と伝えられています。

盛国は平清盛に仕え、のちに「清盛随一の側近」として知られるようになりました。

今回は、そんな盛国の一生をご紹介します。




平清盛随一の郎党として

盛国は早くから清盛に仕え、1156年の「保元の乱」、1159年の「平治の乱」で侍大将として活躍しました。

この二つの合戦では、子息である平盛俊も出陣。親子揃って功名を立てたといわれています。

1165年には検非違使に任命され、翌年の1166年に憲仁親王が立太子すると、東宮の主馬署(※)の責任者を任されます。これにちなんで主馬判官(しゅめのじょう)と称されます。

主馬署(しゅめしょ):皇太子の乗馬や乗具を司る役所

それまで平氏一門を取り仕切っていた平家貞が死去すると、代わりに盛国が一門の取りまとめをおこなうようになります。盛国は公私にわたって清盛を支え続けました。

また、盛国は平氏一門のなかでも清盛を諫められる数少ない人物でした。

1180年に起きた富士川の戦いで平氏方は源氏方に敗れます。清盛はこの責任を取らせるべく、総大将の平維盛に流罪、副将の伊藤忠清に死罪を申しつけます。

しかし、盛国が清盛のこの行動の愚を説いたため、二人は処罰されずに済みました。このことから、さすがの清盛も盛国の意見にはよく耳を傾けていたといわれています。

この2人の関係は、1181年に清盛が盛国の屋敷で死去するまで続きました。




平盛国の最期

清盛が死去してから2年後の1183年、興隆に影が差し始めていた平家は源義仲によって都を追われます。

盛国も一門の都落ちに同行します。この期間、老齢のためか合戦に参加することはなかったと考えられていますが、平家の柱石として重きをなしていたとされています。

しかし、1185年に「壇ノ浦の戦い」で平家は滅亡。盛国は源氏に捕まり、鎌倉に送られました。

鎌倉に送られたあとの盛国は、岡崎義実の宿所に預けられます。すでに出家していた盛国は何も話すことなく、日夜念仏を唱えていたといわれています。

そして、やがて食事を取ることもなくなり、そのまま1186年に死去しました。

源頼朝は盛国の死を聞き、その生き様を称賛したといいます。

ほかの記事はこちらから