平清経とは?平家の行く末を悲観し自害した横笛の名手の一生
平清経は平安時代末期の武士です。
平重盛の三男として生まれました。母は藤原経子です。
官位は正四位、右近権中将(うこんごんのちゅうじょう)と伝えられています。
今回は平氏の公達として生きた清経の一生をご紹介します。
反平氏との戦い
清経の記録が出てくるのは、1180年の「以仁王の挙兵」のときでした。
このとき、清経は園城寺の攻撃に加わり、反平氏方を鎮圧したとされています。
また、翌年の1181年には源氏追討のため、副将軍として東国へ下ったといわれています。
それから2年後の1183年、源義仲の上洛によって平氏一門は西国へ下ります。これまで源氏との戦いで活躍してきた清経もこの都落ちに同行します。
なお、清経は都落ちの際に後白河法皇の御所、法住寺から「吠丸」と「鵜丸」の2つの宝刀を奪っていったといわれています。
平清経の最期
京を脱出した平氏は、船で九州の大宰府へ向かいました。
しかし、そこで反平氏方の攻撃に遭い、再び海上に逃げ延びます。場所は豊前国柳ヶ浦です。
ここで、清経は平氏一門の行く末に悲観的になり、以下の句を詠みました。
居づくへゆかばのがるべきかは、ながらえはつべき身にもあらず
そして、ある晩、横笛を吹いたあとに入水しました。享年は21といわれています。
『平家物語』の「六道之沙汰」の段、建礼門院の述懐で、清経のこの死が平氏一門の「心憂きことのはじめ」として語られています。