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佐藤継信とは?後世の涙を誘う源義経の忠臣の一生

佐藤継信は平安時代末期の武士です。

源義経の郎党として活躍し、義経四天王のひとりにも数えられています。

今回は、そんな継信の一生をご紹介します。




源義経の郎党として

1180年、源頼朝は平氏打倒のため、伊豆で挙兵しました。

この報せを受けて当時、奥州平泉にいた義経は、頼朝のところへ参陣したい旨を奥州藤原氏の当主・藤原秀衡に伝えます。

秀衡は義経の想いを汲み、それを許します。そのとき、秀衡の命で義経の郎党となったのが継信です。

継信は弟・佐藤忠信とともに義経に従い、関東へ向かいます。そして、黄瀬川の陣で義経は頼朝と対面することができました。

以降も継信は義経に付き従います。宇治川の戦い、都入り、一ノ谷の戦いにおいても義経と行動をともにしました。

佐藤継信の最期

一ノ谷の戦いで勝利した義経はいったん都に戻ります。そこで京の治安維持に専念します。

しかし、一ノ谷の戦いのあと、再び平氏が勢力を伸ばしてきたため、義経は平氏討伐の軍を起こします。

義経は平氏が拠点を置いていた四国の屋島に狙いを定めます。暴風雨のなか船で四国に着いた義経は夜陰に紛れて奇襲を行ないます。源氏軍は平氏軍を散々に打ち破ります。

ですが、源氏軍が少数だと気づいた平氏軍は態勢を立て直し、反撃に打って出ます。源氏軍は徐々に旗色が悪くなっていきました。

義経自身も危機に陥ります。そのとき、義経に向かって一本の矢が飛んできます。放ったのは平氏随一の強弓の武士・平教経です。

ここで継信は義経を守るため、矢の前に躍り出て体で受けます。矢は継信の右の肩から左の脇腹まで撃ち抜きました。

矢を受けた継信は落馬。すぐさま義経が駆け寄り、自らの腕で継信を抱き起します。主(あるじ)を守った継信は、そのまま義経の腕のなかで死去しました。1185年のことでした。

継信が息を引き取ったあと、義経は近くの僧侶を探し、さきの一ノ谷の戦いにおいて鵯越(ひよどりごえ)を果たした名馬「大夫黒」を与え、供養を頼んだといわれています。

義経のこの行動を見て、ほかの郎党たちは感動し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べたとされています。




佐藤継信の最期に関する逸話

義経は継信が息を引き取る前に涙を流しながら「何か思い残したことはないか?」と聞きます。

このとき、継信は「思い残すことはありません。ただ、主君の栄達を見ないで死ぬことが唯一の心残りです」と答えたといわれています。

この言葉からも継信が、常に主である義経のことを思っていたことがうかがい知れます。

継信と義経のやりとりは、平安時代のなかでも、多くの人の涙を誘うシーンといっても過言ではないでしょう。

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