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平教盛とは?平家一門を最後まで支えた平清盛の弟

平教盛は平安時代末期の武士です。

平忠盛の四男として1128年に生まれました。

平清盛は異母兄にあたります。




保元の乱・平治の乱

1156年、京を舞台に後白河方と崇徳方で合戦がおこなわれます。この合戦を「保元の乱」といいます。

教盛は兄である清盛に従い、この戦いで活躍します。戦後、その功績により昇殿を許されたと伝えられています。

また、それから3年後の「平治の乱」においても甥・平重盛、弟・平頼盛とともに大将として出陣。重盛と頼盛が敗走すると見せかけて源氏方をおびき寄せている間に内裏を占拠する功を立てました。

このように、初期の教盛は清盛とともに武将としての活躍が目立ちました。

平治の乱後の平教盛

保元の乱と平治の乱のあと、平家一門は続々官位を得るようになっていきます。教盛も例外ではなく、平治の乱後、正四位下・常陸介という官位に叙されました。

しかし、1161年に憲仁親王(のちの高倉天皇)擁立を図ったという容疑で解官。これには、二条天皇と後白河上皇の対立に巻き込まれたという見方があります。

ところが、その翌年には能登守に復職しました。その後、1168年に正三位・参議に進みます。これにちなんで、「門脇宰相」と呼ばれるようになったといいます。

1177年に延暦寺が強訴してきた際には御所の警護をおこないます。平治の乱後の教盛は、清盛に近い立場を取りながらも、朝廷でもうまく立ち回っていたと考えられています。

平家の衰退と平教盛

平教盛 肖像画

源平合戦人物伝より引用(「平教盛画像」、赤間神宮蔵)

一門がつぎつぎと官位を得ていくなど、朝廷での勢いが盛んな平家。

そんな平家に対して、京ではその勢いを弱めようとする勢力も出てきました。

1177年、「鹿ケ谷の陰謀」が発覚。この陰謀には教盛の娘婿である藤原成経もかかわっていました。

教盛は娘婿である成経を重罰に処さないように清盛に対して寛大な処置を願い出たといいます。一説では、このとき教盛は出家するとまでいい、清盛に迫ったと伝えられています。結果、成経は鬼界ヶ島に流罪となりました。

それから3年後の1180年、以仁王が反平氏を掲げて挙兵。教盛は大将のひとりとして、園城寺に逃げ込んだ以仁王側の勢力を攻めました。

翌1181年、清盛が死去すると、各地で起こっていた反平氏方が勢いを増しはじめます。このとき、教盛はおもに京の守りを担当したといわれています。

1182年には従二位・権中納言に叙され、「門脇中納言」と呼ばれるようになりました。

ところが、その翌年の1183年。源義仲が「倶利伽羅峠の戦い」「篠原の戦い」で平家を破り、京に迫っているという報告を受けます。

平家一門は京での防衛が難しいと判断し、都落ちを決めます。教盛もこれに従い、一門とともに西国へ向かいました。




平教盛の最期

都落ちをした平家は一度九州へ渡ります。

しかし、反平氏方の攻撃を受け、四国の屋島に拠点を置き、勢力の回復を図ります。

そんななか、義仲は平家追討のため、西国に軍を派遣します。この動きに対して、平家も水島に軍勢を動かします。「水島の戦い」です。

教盛は息子である平通盛平教経とともに、この戦いに出陣。義仲軍を撃退することに成功します。

また、教盛は同じ年の「室山の戦い」にも出陣し、源行家を破りました。こうした各地での勝利により、平家は一時的に福原まで勢力を盛り返すことができました。

その翌年の1184年、福原で除目がおこなわれ、教盛は正二位・大納言に叙されます。しかし、教盛は、

「けふまでもあればあるかのわが身かは、夢のうちにもゆめを見るかな」

と詠い、この昇進を辞退します。

その後、平家は「一ノ谷の戦い」で源義経や源範頼らの軍勢に敗北。この戦いで教盛は、嫡男の通盛らを失います。さらに「屋島の戦い」でも敗北し、拠点を長門国の彦島に移します。

そして、1185年。「壇ノ浦の戦い」でも平家は敗れます。平家一門がつぎつぎと海に身を投じていくなか、教盛は兄である平経盛と手を取り合いながら入水。享年は58と伝えられています。

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