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平貞能とは?平氏の繁栄を支えた伊勢平氏譜代の家人の一生をご紹介

平貞能は平安時代末期の武士です。

家系は代々、伊勢平氏の家人。そのため貞能も当時、平氏の棟梁だった平清盛に仕えます。

清盛の「専一腹心者」といわれ、平氏の興隆を支えた貞能。今回は、そんな貞能の一生をご紹介します。




父・平家貞とともに平清盛を支える

貞能の父・平家貞は、清盛の父・平忠盛に仕えていました。

家貞は平氏の「一ノ郎等」といわれた家人で、忠盛を闇討ちにする計画を事前に防ぐといった活躍を通じて平氏の繁栄を支えました。

家貞は忠盛の死去後、清盛に仕えます。これ以降、貞能も清盛に仕えることになりました。貞能は清盛に従い、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱に参加し、勝利に貢献しました。

平資盛の補佐役に抜擢される

清盛から嫡男・平重盛に平氏の棟梁としての役割が移ると、貞能は重盛に仕えることになります。そして重盛の次男・平資盛の補佐役を任されます。以後、貞能は資盛の側近として行動するようになります。

それからしばらく経った1179年、平氏の後継者となっていた重盛が死去します。重盛の死によって、平氏の次期棟梁の有力候補は平宗盛に。重盛の系統は平氏一門のなかで微妙な立場になっていきます。

翌1180年、以仁王の挙兵がきっかけとなって各地の反平氏勢力が挙兵します。貞能は資盛に従い、侍大将として近江源氏や美濃源氏の討伐に出陣。その鎮圧に成功します。

しかし翌年の1181年、平氏の大黒柱だった清盛が死去すると、平氏の棟梁は宗盛に。宗盛が後継者となったことで、重盛の系統は平氏の傍流に。一門から孤立していくようになりました。

九州征伐と平氏一門の都落ち

1181年8月、貞能は九州の反平氏勢力の鎮圧を任され、京を発ちます。兵糧不足に陥りながらも貞能は菊池隆直らと戦い、翌年の1182年2月には反乱勢力の平定に成功しました。

翌1183年6月、貞能は京に帰還します。しかし今度は、源義仲の進攻に備えるため、資盛に従い、宇治田原に向かいました。

そうしたなか、宗盛は義仲への対抗を諦め、一度都を離れる決断をします。平氏一門は続々、都を離れていきます。

ところが、資盛と貞能は平氏一門に従いませんでした。二人は後白河法皇に保護してもらうことを考えたのです。

しかし、後白河法皇への願いは叶わず、資盛と貞能は結局、西国に落ちることになります。貞能は重盛の墓に詣でたあと西に向かった平氏一門を追いかけました。




平貞能の最期は?

京を出た平氏は一度、九州の太宰府に入ります。

しかし、敵方だった緒方惟栄(これよし)らの軍勢に攻撃されたため、九州から退きます。

このとき貞能は、惟栄がもともと重盛の家人であったことから交渉役を任されますが、失敗に終わったといいます。

惟栄らの攻撃によって九州を離れた平氏一門。しかしそこに貞能の姿はありませんでした。じつは貞能はここで平氏一門から離れ、出家してそのまま九州に残ったといわれています。

そして、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、宇都宮朝綱を通じて源頼朝に降伏。朝綱は、源平が争っているときに、貞能のとりなしによって東国に帰還できたという恩があったことから、頼朝に貞能の助命を嘆願します。

頼朝はこれを認め、貞能は朝綱に預けられることになりました。その後の貞能は朝綱のもとで生涯を終えたと思われますが、たしかな消息はわかっていません。

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