渡辺競とは?京随一の美男子かつ武勇に優れた武士の一生
渡辺競(きおう)は平安時代末期の武士で、源頼政の忠実な郎党として知られています。
『源平盛衰記』では、武勇・知略・容姿すべてを備えた武士といわれています。
今回は、そんな渡辺競の一生をご紹介します。
摂津源氏の郎党として
渡辺家は祖・渡辺綱以来、摂津源氏の郎党でした。このことから、競も源頼政の郎党として活躍しました。
後白河天皇方と崇徳上皇方が争った「保元の乱」でも源頼政に従い、出陣したといわれています。
【以仁王の挙兵】源仲綱の恥辱を雪ぐ
1180年に以仁王が平氏打倒のため挙兵すると、頼政は平氏から離反。以仁王のもとに馳せ参じるため、三井寺へ向かいます。競はこのとき、頼政とともに三井寺へと向かわず平宗盛に投降、臣従します。
しかし、これは競の作戦で、どさくさに紛れて宗盛の愛馬「煖延(なんりょう)」を奪おうとしたのでした。
というのも、これより前、頼政の嫡男・源仲綱が宗盛に愛馬・「木の下(このした)」を強奪されたという事件がありました。しかも宗盛は、仲綱から奪った木の下に「仲綱」と刻印し、侮辱したのです。競は自分が仕える主君の一族が、このように侮辱されたのを許せなかったのかもしれません。
宗盛に「三井寺攻撃に参加したいが、愛馬を奪われた」と話し、煖延を借り受けます。その後、三井寺へ急行し、仲綱に煖延を渡すと、たてがみとしっぽを切り取った状態で宗盛に返却したといいます。
宇治平等院における最期
以仁王や頼政といった反平氏方は、思うように味方が集まらないことから三井寺から奈良へと逃走を図ります。頼政はこの途中で平氏方の追撃を防ぐため、宇治平等院に留まることを決めます。
そして、競もこれに従います。競は宇治平等院で奮戦したのち、最後は自害したといわれています。