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斎藤実盛とは?幼き頃の源義仲を助け、”武士の鑑”と称賛された老武士

斎藤実盛は平安時代末期の武士です。

1111年に斎藤実直の子として生まれました。

武蔵国長井に住んでいたことから、長井斎藤別当、長井別当と称していたといわれています。

平家物語に一章として取り上げられるなど、その生き様は後世からも称賛されています。




源氏配下の武士として

実盛が住んでいた武蔵国長井は、源義朝が領していた相模国と源義賢が領していた上野国の間に挟まれていました。

それにより実盛はときには義朝に仕え、またときには義賢に仕える。といったように両者の間をうまく立ち回っていました。

しかし1155年、義朝の嫡男・源義平が「大蔵合戦」で義賢を討ち取ります。これ以後、実盛は義朝に仕えるようになりました。

なお、大蔵合戦の際、実盛は殺害命令が出ていた義賢の子である駒王丸をひそかに信濃の中原兼遠のもとに送り届けました。この駒王丸がのちに源義仲となります。

その後、実盛は1156年の「保元の乱」、1159年の「平治の乱」で源氏方の武士として活躍しました。

ところが平治の乱で義朝が平清盛に敗れ、敗走中に謀殺されると、時勢の流れに逆らえず平氏に仕えるようになりました。

平氏の武士として源氏と戦う

実盛は平氏政権のなかで東国の事情に明るい武士として重用されます。

それから数十年後の1180年、実盛が70歳のときに義朝の子である源頼朝が伊豆で挙兵します。もともと義朝の配下として活躍していた実盛でしたが、頼朝のこの挙兵に参陣することはありませんでした。

むしろ平氏方が派遣した源氏追討軍に従軍。このとき実盛は総大将・平維盛の後見役として出陣したといわれています。

実盛の心中には今まで重用してくれた平氏への恩義があったのかもしれません。

しかし実盛は軍中において東国武士の勇猛さを事細かく説明。この説明に平氏方の武士は戦意を喪失させてしまいます。

東国武士に恐れを抱いた平氏方は、戦力が思うように集まらなかったことなども関係して、「富士川の戦い」では合戦をおこなわず撤退。実盛の源氏との初戦は刃を交えることなく終わりました。




養和の北陸出兵とその最期

富士川の戦いから3年後の1183年、実盛は北陸地方の遠征軍に従軍します。

今度の相手は北陸地方の反平氏勢力と信濃の木曽で挙兵した義仲でした。当初、平氏方の遠征は順調でした。

しかし「般若野の戦い」や「倶利伽羅峠の戦い」で義仲の軍勢に敗退します。特に倶利伽羅峠の戦いでは奇襲によって惨敗を喫します。

平氏方はその後、進軍してくる義仲軍を食い止めようと加賀国(現在の石川県)篠原で軍を立て直します。この軍のなかには実盛もいました。

勢いのある義仲軍に対して平氏方は懸命に戦います。ところがその勢いを食い止めることはできませんでした。この「篠原の戦い」でも平氏方は敗戦します。

平氏方が総崩れとなるなか実盛は最期を悟り奮戦。しかしついに義仲配下の武士・手塚光盛の手によって討ち取られたといいます。

平氏への忠義を貫いた実盛の生き様は後世、”武士の鑑”と称賛されました。

斎藤実盛の首を見た源義仲は…

首実検の様子

源平合戦人物伝より引用(「実盛最期の事」『平家物語絵巻』より)

さて篠原の戦いでも勝利した義仲は首実検をおこないます。

実盛は出陣前に老齢であることを敵に侮られないように髪を黒く染めていたといわれています。

そのため義仲は当初、目の前に置かれた首が実盛のものだとわかりませんでした。

しかし樋口兼光が実盛だと気づき、首を洗ったところ黒く染まった髪はみるみる白髪に変わり、ついに義仲も実盛だと確信しました。

かつて幼子だった自分を助けてくれた実盛を討ってしまった義仲は、その首を抱き人目も憚らず涙を流したと伝えられています。

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