伊勢義盛とは?源義経の「一の郎党」と呼ばれた男の一生
佐藤継信、佐藤忠信、亀井六郎などなど、源義経のもとには武に秀でた武士たちが集いました。
そのなかでも筆頭クラスの郎党といわれているのが伊勢義盛です。
今回は、義経の一の郎党と呼ばれた義盛の一生に迫ります。
源義経との出会い
義盛は上野国または伊勢国で生まれたといわれています。
出自は、はっきりしておらず、伊勢国の国司の子または孫、もしくは山賊であったとされています。
そんな義盛が義経と出会ったのが、義経が鞍馬寺を出て奥州へ向かっているときでした。
この途上、義経は上野国で義盛の家に宿泊しました。このとき、義経は義盛の容貌を見て、「奇士用ふべし」と自らの郎党に迎えたといわれています。
これが義盛と義経の出会いであり、主従の契りを結ぶことになったきっかけでした。
源義経とともに各地を転戦
1180年、義経の兄・源頼朝が伊豆で挙兵しました。義経は頼朝のところへ参陣するため、奥州を出立します。
義盛もこれに随行したと思われます。以後、義盛は義経とともに源義仲討伐、平氏討伐と戦続きの日々を送ります。
武勇だけでなく調略にも長けていた義盛は、1185年の志度合戦のおり、平氏方の田口教能の陣にたった16騎で訪れ、教能を説き伏せ降伏させたといわれています。
このとき、義盛は16騎すべてを白装束にさせ、教能の父・田口成良が源氏方に捕らえられていること、一族がほぼ戦死していることを伝えたとされています。
この話は義盛の嘘なのですが、これにより教能は降伏したといわれています。
また、平氏方との最終決戦である壇ノ浦の戦いでは、平宗盛と平清宗を捕らえるなどし、「一の郎党」として恥じない活躍をしました。
伊勢義盛の最期
平氏を討伐したあと、主である義経は頼朝と対立します。
この少し前、義経が頼朝から疎まれる原因となったことの弁明をしようと鎌倉に向かった際、義盛は頼朝の妹婿である一条能保の家人と乱闘騒ぎを起こします。
乱闘自体は義経と能保によって収まりましたが、これにより義盛は頼朝の怒りを買ったといわれています。
このあと、義経と頼朝が完全に対立し、義経が九州へ都落ちする際にも義盛は同行します。
しかし、九州に向かう船が暴風雨によって難破すると、義経と離ればなれになってしまいます。
その後、義盛は伊勢国に潜伏します。潜伏後、機を見て守護であった山内首藤経俊を襲撃しますが、失敗に終わり敗走。
鈴鹿山に逃亡し、そのまま自害したといわれています。
『玉葉』では、鎌倉方に捕らえられ、梟首されたと伝わります。