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佐藤忠信とは?源義経に忠を尽くした勇士の一生

佐藤忠信は平安時代末期の武士です。

兄・佐藤継信と源義経の郎党となり、主人と苦難をともにした人物として知られています。

今回は、そんな佐藤忠信の生涯についてご紹介します。




源義経の郎党に

1180年、奥州の雄・藤原秀衡に匿われていた義経は、兄・源頼朝が伊豆で挙兵したと聞きます。義経は今まで匿ってくれていた秀衡に、頼朝のもとに馳せ参じたい旨を明かします。

そのとき、秀衡から命を受け、郎党として同行することになったのが忠信です。ここから、義経と忠信の主従関係がはじまります。

源義経に従い各地を転戦

奥州を出た義経は頼朝のもとへ急ぎます。そして、二人は黄瀬川で涙の対面を果たします。これ以降、頼朝は義経と、もう一人の弟・源範頼に軍勢の指揮を任せるようになります。

時が過ぎ1183年。頼朝は上洛のために鎌倉を出立。しかし、「京が飢饉で食糧難に陥っている」という情報を耳にし、上洛を中止します。

代わりに義経らが京へ向かうことになりました。これに忠信も同行したと考えられます。

この頃、京では頼朝と義経の従兄である源義仲が後白河法皇と対立。法住寺合戦を繰り広げ、後白河法皇を幽閉してしまいます。

今の兵力では入京できないことを悟った義経は頼朝に援軍を求めます。そして、援軍を待ってから京へ進軍。義仲軍を宇治川の戦いで破り、粟津で義仲を攻め滅ぼします。

以降、義経は平氏方との闘いに明け暮れます。一ノ谷の戦い、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦い。屋島の戦いでは兄・継信が義経を庇って戦死。それでも忠信は、主である義経とともに平氏方と戦い続けました。




源頼朝の刺客を撃退

壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした義経は、その功績を認められて朝廷から官職を得ます。

しかし、これが頼朝の逆鱗に触れます。義経とともに任官した忠信も、頼朝の不興を買いました。

この後、義経と頼朝は対立。頼朝は義経に刺客を差し向けます。六条堀川の宿にいた義経は、頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)らの襲撃を受けます。

忠信は義経とともに刺客を迎え撃ち、昌俊らを撃退します。そして、義経が西国落ちを決めると、これに同行することになります。

源義経の身代わりとなり追手を食い止める

忠信をはじめとした義経一行は、大物浦(だいもつのうら)から船で西国に向かいます。しかし、途中で嵐に遭い、一行は離散します。

再び港に戻ってきた義経は、今度は吉野山から大峰山を越えることを決めます。この吉野山で忠信は、追手を振り切れず自害を考えた義経を諌止。自らが義経の身代わりとなることで主を逃がそうとします。

忠信は追手の僧兵たちと激闘を繰り広げます。このとき、金峯山(きんぷせん)一の荒法師・横川覚範(よかわかくはん)と死闘を繰り広げ、討ち果たしたエピソードは忠信の勇猛さをあらわしているといっても過言ではないでしょう。

義経一行は忠信が奮戦している間にさらに奥へ逃げ、追手から逃れることができたそうです。




佐藤忠信の最期

義経たちと別れた忠信は、京へ潜伏して主の行方を求めます。しかし、京都の中御門東洞院に潜んでいるところを頼朝方の糟屋有季(かすやありすえ)によって襲撃されます。

武力に優れた忠信といえども、数で勝る有季には敵いませんでした。奮戦したのち、義経から賜った刀を口に突き立て自害しました。

なお、忠信は一度、刀を腹に突き立てたが、なかなか死ねず「あまりにも判官(ほうがん)を恋しと思ひ奉るゆえに、これまで命が長きかや」といい、刀を口に含んだといわれています。

1186年11月のことでした。

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