義仲四天王・楯親忠!源義仲軍の中核として活躍した若武者の一生
楯親忠は平安時代末期の武士です。
信濃国佐久地方に勢力を持っていた根井行親の六男として生まれました。
『平家物語』ではあまり活躍が記されていない親忠ですが、『源平盛衰記』ではしばしばその名前が見られます。
では、親忠はどのような生涯を送ったのでしょうか。その一生に迫ります。
源義仲軍の中核として活躍
1180年、源義仲が以仁王の令旨を受けて挙兵した際に、父や兄とともにすぐさま駆けつけ参陣。
それ以降、義仲軍の中核として、横田河原の戦いや倶利伽羅峠の戦いといった平氏方との戦いに明け暮れます。
特に親忠の活躍が目立ったのは、平氏方との初戦にあたる横田河原の戦いです。この戦いで親忠は敵の様子を調べる役割を担いました。
結果的に義仲軍は少数で大軍を破る奇襲作戦を成功させますが、勝因は親忠の情報によるところが大きかったといわれています。
楯親忠の最期
その戦いから4年後の1184年。
親忠は、義仲追討の命を受けた源義経と宇治川を挟んで対峙します。宇治川の戦いです。
この頃の義仲軍は兵士の相次ぐ逃亡により軍勢は少数となっていました。一方の義経軍は数万の大軍です。
親忠は父である行親とともに、橋を落とし、川底に網を張り、なんとか防戦します。ですが、多勢に無勢ということもあり、次第に旗色が悪くなり、ついに義経軍に宇治川を突破されます。
親忠は、その戦いの最中、六条河原で討ち取られてしまいました。
一説では故郷に戻り、一族とともに逃亡したともいわれています。