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平山季重とは?東国を代表する勇猛な武士の一生

平山季重は、平安時代末期の武士です。

父は平山直季。武蔵国多西郡船木田荘平山郷で生まれたといわれています。

武蔵七党のなかの西党に属す東国武士団のひとりとして有名です。

京で警護をおこなう武士に

平安時代後期、東国武士たちは若い頃から京に上ることが主流となっていました。

季重もそのひとりで、1155年に天皇の御所を守る「滝口の武士」に任命され、衛士(えじ)として働いていました。

当時、この滝口の武士たちは、天皇が退位したのちにそのまま院御所を守る「武者所」になることがありました。

このことから季重も、1158年に武者所となり、平山武者所季重と呼ばれるきっかけとなりました。

「保元の乱」「平治の乱」で活躍

そんな季重が武士として名を挙げる契機となったのが、1156年の保元の乱です。このとき、季重は源義朝に従い、功を挙げます。

また、それから3年後の平治の乱のときは、義朝の嫡男である源義平に従い、保元の乱と同様に功名を挙げます。

この平治の乱における季重の勇猛ぶりをあらわすのが「待賢門での戦闘」でした。

季重は義平とともに平重盛500騎に対して17騎で対抗。数で劣りながらも奮戦しました。

しかし、源氏側は敗退。義朝は東国へ落ちる途中、配下に討たれてしまいました。

その後、季重も東国へ落ち、平氏支配体制のもとしばらくの間、故郷で落ち着いた生活を送っていたといわれています。

源頼朝の挙兵に従い、平氏討伐で活躍

1180年、平治の乱以降、伊豆で流人生活を送っていた頼朝が、打倒平氏を掲げ挙兵しました。

挙兵を聞きつけた季重は、頼朝のもとへ参陣。富士川の戦いや金砂城の戦いに出陣しました。

特に佐竹氏との戦いである金砂城の戦いでは、真っ先に敵の城に攻め入るなど、熊谷直実とともに大きな武功を挙げ、「命を顧みず先登で勲功を立てた」と頼朝から高く評価されました。

1184年には、頼朝から遣わされた源義経に従い、宇治川の戦いで義仲四天王である根井行親楯親忠を破ります。

また、同年の一ノ谷の戦いでは奇襲部隊として平忠度の陣に突撃します。なお、この戦いでは、厳重な柵で囲われた忠度の陣を季重が打ち破り、散々に敵を倒したといわれています。

平山季重が突撃したときの絵巻

源平合戦人物伝より引用(「平家物語絵巻」より 林原美術館蔵)

その翌年の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも季重は先陣を切って突撃。平氏討伐に貢献しました。

平山季重のその後

平氏を滅ぼした年、季重は後白河法皇から右兵衛尉(うひょうえのじょう)に任命されます。

ですが、この任官は頼朝から許可なくおこなったため、叱責され、当初東国へ戻ることを禁止されました。

このとき、頼朝は「顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と、その容貌とともに季重の行動を罵ったといわれています。一方で、この頃に筑前国三笠郡原田荘の地頭職を任されます。

1189年には息子である平山重村とともに奥州合戦に参加。そこでも功を挙げ、鎌倉幕府の元老に取り立てられました。

その後、1191年には「悲願寺(だいひがんじ)」を創建。翌年に源実朝が誕生した際には、鳴弦役(めいげんやく)を務めます。

1195年には頼朝の上洛に供奉。その12年後の1207年には「小宮神社」を創建します。

そして、1212年に病により死去。しかし、季重の生没年ははっきりとわかっておらず、現在も詳細は不明です。

平山季重亡きあとの平山氏

季重死去後の平山家は、和田合戦において和田方に味方したことから衰退しました。ですが、北条氏による粛清は免れたとされています。

室町時代に関東管領職・上杉家の影響下にあった平山三河入道は、季重の子孫であると考えられています。

また、戦国時代には平山氏重という人物が後北条氏に従ったとされています。

しかし、豊臣秀吉による小田原征伐の際に檜原城に籠城後、落城。平山氏は滅亡し、一族も没落しました。

ところが、現在でも東京都多摩地区には季重の子孫と称する人たちが住んでいます。

この地区では、「平山季重まつり」などがおこなわれたりし、ふるさとの英雄を今に伝え続けています。

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