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平家盛とは?平清盛に代わり次期棟梁と注目された武士

平家盛は平安時代末期の武士です。

平忠盛の次男として生まれました。母は正室の池禅尼です。

平清盛とは腹違いの弟にあたります。同母弟に平頼盛がいます。



平家盛の生涯

家盛は1123年頃に誕生したといわれています(平治物語では1127年)。

当時、平氏の棟梁だった父・忠盛は、朝廷において徐々に名が知られるようになっていました。

その影響があってか1134年、家盛はまだ幼いにも関わらず「蔵人」に任じられました。また、約8年後の1142年には「兵衛佐」に。ただ、兵衛佐のときに行事となっていた供奉を怠り謹慎処分となります。

その後、1143年に従五位上に。1147年に正五位下と位階を上げます。

同年6月に兄・清盛が「祇園闘乱事件」の責任を追及されると、家盛が朝廷内で重んじられるようになります。そして、同年の12月には「常陸介」に任じられます。

このように、家盛は朝廷において、徐々に出世をしていきました。

しかし、その栄達は病によって終わりを告げます。

1149年、鳥羽法皇が熊野詣に出かけます。このとき、家盛は病に侵されていましたが、この熊野参詣に同行します。

ですが、無理をしたためか熊野までの途上で病状が悪化。家盛はそのまま宇治川の落合あたりで死去しました。

享年は20代の半ばであったとされています。



平家盛死後の平氏

平清盛が平氏一門の棟梁に

家盛存命中の頃は、平氏家中のなかでも「家盛を次期棟梁に」という声がありました。

これは、家盛が朝廷で重んじられていたことが大きく関係していると考えられます。また、母である池禅尼が忠盛の正室であったことなども影響していると思われます。

一説には、「保元の乱」のときに家盛が生きていたら、「平氏は清盛と家盛の間で分裂していた」ともいわれています。

清盛と家盛がお互いにどう思っていたかはわかりませんが、少なくともこの頃の平氏家中では「どちらが棟梁にふさわしいか…」といったような意見があったのではないかと考えられます。

そして、それが平氏家中で微妙な空気をつくり出していたかもしれません。

ですが、家盛が死去したことで、次期棟梁は清盛となります。清盛は武力や交易による財力を武器に朝廷で出世。平氏全盛の時代をつくることになります。

源頼朝が命拾い&平氏没落の遠因に?!

「平治の乱」で平氏に捕らわれた源頼朝は、禍根を断つために斬首される予定でした。

しかし、頼朝の姿が幼少の頃の家盛に似ていたことから、池禅尼が清盛に助命を嘆願。頼朝は伊豆に流されることになりました。

この清盛の決断がのちに「源氏の再興」「平氏の没落」を招くことになります。

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