平経正とは?一ノ谷の戦いで散った琵琶の名手の一生
平経正は平安時代末期の武士です。
平経盛の嫡男として生まれました。
平氏一門の俊才
経正は平氏一門のなかでも俊才として知られていました。
一門のなかでは傍流でしたが、淡路守、丹後守、但馬守を歴任。1179年には正四位下になりました。
この出世は経正の能力が優れていたことの証といえるでしょう。
そんな経正がとりわけ優れていたのが琵琶です。17歳のときには仁和寺に伝わる名器「青山(せいざん)」を預かるほどの名手でした。
経正は片時も青山を離すことなく、宇佐神宮で『青海波(せいがいは)』、竹生島で秘曲を弾いたと伝わります。また、歌にも秀でていたといわれています。
経正は武人というより貴族的、文化的な人だったのかもしれません。
平経正の最期
しかし経正も武門である平氏の人。
源氏との合戦では武器を手に取り戦っていました。
特に1183年の源義仲を追討するための北陸出兵では副将軍として出陣。兵を従えて義仲軍と戦いました。
その後、平氏が都落ちするとこれにも同行。この際、戦火によって失われてしまわないように、仁和寺に青山を返却したといわれています。経正が仁和寺に青山を返却した話は『平家物語』や『源平盛衰記』にも描かれています。
翌年の1184年、一度西に逃れた平氏は福原(現在の兵庫県神戸市)まで勢力を盛り返していました。そんななか義仲を討ち取った源義経・源範頼が平氏追討のため、西に軍を進めてきます。平氏は福原周辺で義経・範頼軍を迎え撃ちます。今に伝わる一ノ谷の戦いです。
経正もこの合戦に出陣。武士として懸命に刀を振るいました。しかし敵に囲まれ、ついに討ち取られてしまいました。討ち取ったのは庄高家(しょうのたかいえ)または河越重房だったといわれています。
経正の最期については全軍が総崩れとなるなか弟の敦盛を心配し探しているときに敵に囲まれ自刃したという話もあります。
なお弟の経俊と敦盛もこの一ノ谷の戦いで討ち死にしました。
平経正の琵琶に関する説話
経正にはさまざまなエピソードが伝わっています。
なかでも有名なのが宇佐神宮と竹生島で琵琶を弾いたときです。
経正が宇佐神宮で青海波を弾くと神殿が揺れ動き、二羽の千鳥が舞い遊んだといわれています。また竹生島で秘曲を弾いた際は明神が白い龍となり、経正の袖に現れたとも。
これらの伝説があることからも、経正の琵琶の腕前を知ることができますね。