源頼朝の有力御家人・三浦義澄!その一生をご紹介
三浦義澄は平安時代末期の武士です。1127年、三浦義明の次男として生まれました。
義澄は桓武平氏の流れを汲む三浦一族として源平合戦で活躍。源頼朝から厚い信頼を寄せられました。
今回は、そんな義澄の一生に迫ります。
源義朝の家人として
1159年、後白河院政派と二条新政派による政変が起きます。これを平治の乱といいます。
義澄は、源義朝が後白河院政派であったことから二条新政派と戦うことになります。しかし、義朝は平清盛らに敗れ、東国へ敗走。義澄も本拠地である相模国三浦郡に戻りました。
以降、義澄は平氏政権のもと、京都大番役などを務めることになります。
源頼朝の挙兵に応じる
1180年、伊豆に流されていた頼朝が平氏打倒を掲げ、挙兵します。義澄はこの挙兵の計画段階から関わっていたといわれています。
ですが、頼朝と合流すべく進軍している途上で石橋山の戦いがおこなわれます。この戦いで頼朝は敗走し、船で安房国へ向かいます。
その報せを受けた義澄は本拠地へ引き返し、畠山重忠率いる平氏軍との戦いに備えるべく衣笠城に籠ります。この戦いを衣笠城合戦といいます。
衣笠城合戦で義澄は平氏軍に敗れます。父である義明も討死します。三浦一族は衣笠城から撤退し、頼朝と同じく船で安房国へ向かいます。そして、頼朝と合流することになります。
源頼朝に従い各地を転戦
安房国に敗走後、千葉常胤や上総広常らを味方につけた頼朝は態勢を立て直し、平氏を打倒するため、再び立ち上がります。
義澄もこれに従い、平氏方の武士が安房国で頼朝を襲撃しようとしていたところを事前に察知し撃退するなど、大いに活躍しました。
その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いなど、平氏方との戦いに出陣。特に壇ノ浦の戦いでは、海上戦に慣れていたこともあり、先登(せんとう)を担いました。
また、東北を支配していた奥州藤原氏との奥州合戦にも出陣し、功を立てます。義澄は頼朝の家人として各地で戦いに明け暮れる日々を送りました。
三浦義澄の最期
源平合戦や奥州藤原氏との戦いを乗り越えてきた義澄は、頼朝の厚い信頼を獲得していました。
それをあらわすエピソードとして、1192年に頼朝が征夷大将軍に任命された際、「朝廷からの任命書を受け取る役割」を任せられたことが挙げられます。
このことからも義澄が頼朝配下の武士団のなかでも特に厚遇されていたことがわかります。
さらに、頼朝亡きあと、1199年に二代将軍・源頼家による政治が停止された際、宿老のひとりとして「十三人の合議制」のメンバーに抜擢されます。
頼朝がいなくなったあとの鎌倉幕府でも、義澄の地位はとても高かったといえるでしょう。
その後、「梶原景時の変」では反景時方に加担し、景時を鎌倉から追放します。
そして、1200年2月9日、義澄は死去しました。