源義平とは?武勇を轟かせ「悪源太」と呼ばれた武士の一生
平治の乱で平清盛に敗れ、命を散らした源義朝。その義朝の子として活躍したのが源義平です。
義平は源頼朝や源義経の異母兄にあたり、当時から武勇に優れた人物と言われていました。今回は、そんな義平の一生に迫ります。
源義平の誕生と大蔵合戦
義平は1141年、源義朝の長男として生まれました。母は橋本の遊女、または三浦義明の娘とされています。正室の子ではなく、庶長子であったと考えられています。
※庶長子:正室以外の女性から生まれた子ども
1155年、父・義朝が異母弟の源義賢と対立。義朝は義賢の居館である大蔵館を急襲します。義平もこの争いに参加し、義賢と義賢方の秩父重隆を討ち取る功を立てます。15歳でありながら義平の武勇は凄まじく、これ以降、「悪源太」と呼ばれるようになりました。
保元の乱と平治の乱
武名を轟かせた義平は、その翌年の保元の乱にも参陣します。この合戦では、祖父・源為義、叔父・源為朝らと戦うことになります。保元の乱は最終的に義朝・義平らの勢力が勝利し終結。義朝は為義や弟たちを処刑しました。
それから3年後の1159年12月、今度は平治の乱が起きます。東国にいた義平は義朝の援軍として東国武者を引き連れ、京に向かいます。合戦では敵対した平氏軍と交戦。義平は劣勢のなか奮戦します。
しかし、義朝・義平らは敗北し、東国を目指して落ち延びます。この逃避行のなか、次弟である源朝長が合戦の傷が原因で死去。その次の弟である頼朝は一行からはぐれ行方不明になります。
さらに義平も東山道ルートで東国に向かうことになり、途中で義朝一行と別れました。
源義平の最期
東山道から東国に向かっていた義平でしたが、義朝が長田忠致に討たれたことを知り、京に引き返します。京に入った義平は平氏の棟梁であった平清盛の命を狙う計画を立てます。
しかし、潜伏していたところを平氏方に見つかり、捕まってしまいます。そして、1160年に六条河原で処刑されました。享年は20歳と伝わります。
平治物語における源義平
平治の乱について書かれた軍記物語『平治物語』では、義平の活躍が多く記されています。以下、平治物語をもとに平治の乱における義平の動向をご紹介します。
源義平の参陣
義平が東国武者とともに京に着いたとき、藤原信頼が除目を催していました。
除目:平安時代において大臣以外の官職を任命する儀式
信頼は義平を見ると、「望みの官位をくれてやる」といいます。
その言葉に対して義平は、「そんなことよりも阿倍野に軍を出して京に向かってくる清盛を討ち取りましょう。そのあとなら大国でも小国でもいただきます」と提案します。
義平のこの言葉に気分を悪くした信頼は、「清盛は都で取り囲んで討ち取ればいい」と提案を却下しました。
清盛は京に戻ると、本拠地の六波羅に入ります。そして、ひそかに二条天皇と後白河上皇を内裏から脱出させ、陣営に迎えます。
これにより、清盛が官軍、信頼と義朝が賊軍となり、合戦をはじめることになってしまいました。
平重盛との戦い
信頼と義朝を討つため六波羅を出撃した平氏軍は、敵の本陣であった大内裏に迫ります。
信頼と義朝は、これに対抗するため各門に味方を配置。平氏軍を大内裏に入れないように抗戦します。
しかし、待賢門を守っていた信頼が、平重盛の軍勢を見て戦わずに退却。待賢門は突破されてしまいます。
そこへやってきたのが義平です。義平は待賢門が突破されると、武勇に優れた東国武士を17騎率いて重盛の軍勢に突撃します。
このなかには、のちに源頼朝に従い、平氏と戦った三浦義澄や熊谷直実、平山季重などがいました。また、後年、平氏軍として源義仲と戦った斎藤実盛の姿もありました。
数に劣る義平勢でしたが、散々に重盛軍を蹴散らし、あっという間に敵を退けます。このとき、義平は重盛を追い回し、内裏の「左近の桜」と「右近の橘」の間を7回~8回行き来したといいます。
いったん退却した重盛は、新手の500騎を従えて再び攻め寄せます。義平は再度、17騎で突撃し、重盛軍を蹴散らします。
劣勢となった重盛はついに撤退。義平は重盛を執拗に追いかけますが、あと一歩のところで逃がしてしまいました。
六波羅合戦
義平の活躍が目立った内裏での戦いでしたが、しばらくすると数に勝る平氏軍に占拠されます。
義朝は六波羅への攻撃を決意し、義平らを率いて進軍します。対する清盛も軍備を整え、出陣。両軍は激突します。
義平は清盛を狙い突撃しますが、戦い続きで疲労が溜まっていたことに加え、平氏軍が次々、新手を繰り出してくることが影響し、ついに敗走。東国に向かって落ちていきます。
処刑時の逸話
平治の乱で敗れ落ち延びた義平は、東国に向かう途中で義朝が討たれたことを知り、京に引き返します。しかし、京に潜伏中、平氏方に見つかり、捕まってしまいます。そして、義平は六条河原で処刑されることになります。
処刑の際、義平は難波経房に対して「斬り損ねたら喰らいつく」と言います。さらに義平は「雷になって蹴り殺す」といったことを口にします。経房は相手にせず、義平の首を切り落とします。それから8年後、経房は雷に打たれて死んでしまったといわれています。