平維盛とは?富士川での敗戦で平清盛に激怒された、美貌の誉れ高き貴公子の一生
『平家物語』でもたびたび取り上げられるなど、平氏のなかでも知名度の高い人物として知られている平維盛。
治承・寿永の乱においては平氏の大将となり、源氏と戦う日々を送りました。今回は、そんな維盛の一生をご紹介します。
平氏の次期棟梁・平重盛の子として誕生
維盛は平清盛の嫡男・平重盛の子として誕生しました。
母は出自不明の官女とされていますが、一説には平時信の娘・坊門殿といわれています。
1159年に起きた平治の乱以降、清盛と重盛は朝廷で躍進。平氏一門のなかから官位に就く者が続出しました。維盛もこれに漏れず、平氏の次期棟梁となる重盛の子として官位を得ていきます。
ただし、維盛は当初、嫡子として扱われていなかったとされ、従五位下に叙されるのが次弟の平資盛よりあとでした。
維盛が嫡子となったのは1170年7月から12月までの間。それまでは庶長子という立場だったと考えられています。
ですが、嫡子となって以降は順調に出世を重ね、最終的には右近衛権中将・蔵人頭・伊予権守、従三位になりました。
「美貌の貴公子」と周囲から称賛を得る
1176年、後白河法皇の50歳の祝賀の際、維盛は青海波を舞います。
烏帽子に桜の枝と梅の枝を挿して舞う維盛の姿は、とても美しく周囲の人たちから称賛されたといいます。
建礼門院右京大夫は「昔も今も見ることがない美貌」と称え、その姿を光源氏にたとえました。また、平氏を嫌っていた九条兼実も、「容姿が美しく、称賛に値する」と評価。
維盛は朝廷の人々の間で美貌の貴公子として、その名を高めていきました。
治承・寿永の乱
ところが、平氏の興隆はそう長く続きませんでした。
1179年に父・重盛が死去すると、後白河法皇は重盛の領地を召し上げます。この処置に清盛は激怒し、法皇を幽閉。治承三年の政変を起こします。
このような平氏の専横に反平氏勢力が立ち上がりはじめ、1180年5月には後白河法皇の皇子である以仁王が反平氏を掲げ挙兵します。
維盛は叔父である平知盛や平重衡らとともに、この反乱を鎮圧しました。
富士川の戦いで総大将に
同年9月、維盛は清盛から東国の反乱勢力の鎮圧を任されます。
総大将として軍を率い、富士川まで進んだ維盛。しかし、思うように兵が集まらなかったこと、味方の士気が低かったこともあり、戦わずに撤退します。
このとき、平氏軍は水鳥の羽音を敵の奇襲だと勘違いして混乱。散り散りになり、維盛が京に着いたときには、数騎しかいなかったといわれています。
この醜態に清盛は激怒。維盛の入京を禁じました。
墨俣川の戦いで勝利
翌年の1181年閏2月、平氏の大黒柱であった清盛が死去します。つぎの棟梁となったのは叔父の平宗盛でした。
3月になると、維盛は宗盛から美濃周辺の源氏討伐の大将を任されます。美濃に進軍した維盛は、もう一人の大将である重衡とともに墨俣川に布陣します。対する源氏軍も源行家、源義円の指揮のもと、平氏軍の対岸に陣を構えます。
この墨俣川の戦いでは平氏軍が源氏軍の奇襲を見破り、一気に攻撃。源氏軍を撃退することに成功しました。
養和の北陸出兵
墨俣川の戦いから2年後の1183年4月、維盛は北陸地方の反平氏勢力の鎮圧を任されます。この追討には信濃で挙兵後、越後を支配下においていた源義仲の討伐も含まれていました。
約10万におよぶ軍勢を率いて出陣した維盛は、順調に反平氏勢力を鎮圧していきます。しかし、越中で平盛俊が今井兼平に敗れると、維盛は進軍を止め、倶利伽羅峠に布陣します。
一方の義仲も軍を率いて倶利伽羅峠に進軍。山の麓に布陣します。そして夜陰に紛れて平氏軍を攻撃します。
義仲軍の奇襲に平氏軍は総崩れ。維盛は敗走します。その後の篠原の戦いでも平氏軍は体制が整わず敗北。維盛は京まで撤退しました。
平氏一門の都落ち
維盛の敗戦を聞いた平氏一門は京での迎撃をあきらめ、西国行きを決めます。
維盛もこれに従い、妻子を残したまま京を離れました。このとき、妻子との別れを惜しんでいた維盛は出発に遅れてしまい、宗盛や知盛から裏切りを疑われたといわれています。
京を離れた平氏は最終的に屋島に落ち着き、そこで勢力の盛り返しを図ります。1183年10月、京を制圧後、平氏追討のために派遣されてきた義仲軍を水島の戦いで撃退。続く室山の戦いでも行家が率いる源氏軍に勝利し、平氏は福原周辺まで勢力を拡大しました。
ちなみに、屋島に本拠地を置く前に、維盛の弟・平清経が豊前国柳ヶ浦で入水します。
平維盛の最期
1184年、屋島にいた維盛は一ノ谷の戦い前後、ひそかに陣中を抜け出します。
維盛は船で本州に渡ると、高野山で出家。熊野を参詣したあと、那智の山成島で松の木に祖父・清盛、父・重盛、そして自分の名前や年齢、官位などを書きつけます。
その後、沖に船を出し、かつて重盛に仕えていた滝口入道(斎藤時頼)立ち合いのもと、入水しました。享年は26といわれています。
なお、『源平盛衰記』では、出家したのち後白河法皇のもとを訪れ、頼朝に引き渡されたあと、そのまま東国で天寿を全うしたとされています。