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武田信義とは?武田信玄との関係性は?その一生とともにご紹介

源頼朝は平氏を滅ぼしたあと、自らの権威を確立するため同族の排除に動きます。甲斐源氏もその粛清の対象になった氏族のひとつです。

「八幡太郎」と称された源義家の弟・源義光を祖とする家系で、源平合戦では頼朝とともに平氏討伐で貢献した甲斐源氏。当時、そんな甲斐源氏を率いていたのが武田信義です。

今回は、甲斐源氏の当主として源平合戦で活躍した武田信義の一生をご紹介します。




誕生から「武田信義」と名乗るまで

信義は1128年に源清光の次男として生まれました。

兄・逸見(へんみ)光長と双子だったとされ、光長が巳の刻(9時~11時)、信義が午の刻(11時~13時)に誕生したといわれています。

それから12年後の1140年、信義は13歳のときに武田八幡宮にて元服。以降、武田信義と名乗るようになりました。

以仁王の令旨に応じて挙兵する

元服から40年後の1180年、信義のもとに以仁王の令旨が届きます。

以仁王は台頭した平氏を打ち倒すため、全国各地の源氏や寺社に挙兵を呼びかけたのでした。

この呼びかけに信義は呼応。甲斐国で挙兵します。信義は手始めに信濃国の平氏勢力を討伐。次いで駿河国の目代だった橘遠茂、さらに長田入道らを破ります。

信義率いる甲斐源氏は駿河国まで勢力を拡大しました。

富士川の戦い

信義らの活躍によって駿河国に勢力を拡大した甲斐源氏。

一方の平氏はこの状況を打開するため、平維盛を総大将に任命し、東国に向けて軍勢を派遣します。これに対して信義は、弟・安田義定や一条忠頼らを率いて富士川に陣を構えます。

両軍は富士川を挟んで対峙しますが、ほどなくして平氏軍は撤退。信義は平氏軍と真っ向から衝突することなく、富士川の戦いに勝利しました。

源頼朝に従い平氏を滅ぼす

その後、信義が率いる甲斐源氏は動きがまとまりませんでした。

弟の義定は源義仲とともに動き、同じく弟の加賀美遠光や小笠原長清、信義の子・石和信光(のちの武田信光)は頼朝に接近します。

そうしたなか、後白河法皇が信義に頼朝の追討を命じた、という噂が流れます。1181年のことです。

この噂を確かめるために頼朝は信義を鎌倉に召喚。信義はそこで起請文を書くことになります。やがて頼朝と義仲が対立したときは頼朝に協調し、軍勢を義仲討伐に従軍させます。

それからのちの一ノ谷の戦いや屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも信義は頼朝軍として動き、平氏討伐に貢献しました。




武田信義の最期は?

源平合戦で活躍した信義は、壇ノ浦の戦いから1年後の1186年に病で死去したといわれています。

しかし、『吾妻鑑』には1194年まで信義の名前があることから、一説には1186年以降も生きていたとされています。

武田信義と武田信玄の関係性とは?

戦国時代に「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄は信義の子孫と伝えられています。

反平氏を掲げ挙兵後、頼朝に接近した信光は、のちに甲斐源氏の当主となります。

その系統が戦国時代まで続き、信玄という名将を生み出すことにつながります。

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