平貞盛とは?平将門の追討で功績を残した平氏武士の一生
平貞盛は平安時代中期の武士です。
平国香の嫡男として生まれ、東国で反乱を起こした平将門を討伐したことで知られています。しかし将門との戦いは、決して順調ではありませんでした・・・。
今回は苦戦しながらも将門を討伐した貞盛の一生をご紹介します。
父・平国香の死
貞盛が京で右馬允に就いていた935年。常陸国(現在の茨城県)で、源扶(みなもとのたすく)らと将門が争いを起こしました。父の国香は、その争いに巻き込まれ死去。これを受けて貞盛は常陸国に下向し、国香の後を継ぐことになりました(常陸大掾)。
もともとこの争いは、扶ら源氏とその勢力に加勢した叔父・平良正が、将門を攻撃して引き起こしたこと。貞盛は将門との対立を避け、融和策を取ることに。
しかし良正と将門はしばらく争い続けます。その後、国香の死後に一族の長となっていた叔父・平良兼もこの争いに参戦。同族内の抗争はどんどん激化していきました。
そんななか貞盛は、反将門勢力の中心となっていた良兼から説得されます。そしてついに反将門勢力として参戦することになりました。
参戦を決めた将門との戦い!しかし苦戦を強いられる
将門との戦いは936年からはじまりました。この年、貞盛は良兼や良正らと一緒に将門を攻撃。しかしこの戦いは将門に敗れるという結果に終わりました。
一度敗れた貞盛でしたが、937年に再び将門と対峙。この戦いでは勝利することができました。ところが、将門が朝廷より、良兼と貞盛らの追討を命じる官符を受け取ったことで形勢不利に。貞盛らは官軍となった将門に敗北し、駆逐されてしまいます。
938年、貞盛は京に向かい、朝廷に将門の非を訴え、追討の官符をもらいます。そして官符を受け取って東国に戻った貞盛は、再び将門と戦います。ですが、この戦いでも将門に敗れます。
さらに、翌年の939年に良兼が死去したあとも、貞盛は将門と合戦を繰り広げますが、敗北してしまいます。貞盛は将門の追撃を逃れるため、この合戦以降、身を隠すことになりました。
藤原秀郷とともに将門を討伐する
敗北を重ねた貞盛でしたが、940年に入ると転機が訪れます。藤原秀郷を味方に引き入れたのでした。
秀郷とともに軍勢を集めた貞盛は、将門を討つために再び軍を進めます。対する将門も貞盛・秀郷に向けて進軍。両軍は下総国川口で対峙しました。
合戦当初、将門軍の勢いに劣勢だった貞盛・秀郷軍。しかし、数で勝っていたこともあり、徐々に押し返します。そして将門を撃退することに成功します。
貞盛は本拠地に戻った将門を追ってさらに進軍。苦戦しながらも、ついに将門を討ち取りました。
平貞盛のその後
貞盛は将門を討った功績により、朝廷から従五位下に叙されました。
その後も順調に官職を得ていき、947年には鎮守府将軍に。貞盛は「平将軍」を称しました。
また、陸奥守や丹波守を歴任し、着実に公務をこなしていきました。
そしてそれからしばらくして死去。死去した年は正確にわかっていません。