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平教経とは?猛将として名を高めた平氏最強の武士の一生

平教経は平安時代末期の武士です。

平清盛の義弟・平教盛を父に持ちます。兄弟には平通盛、平業盛、忠快、平教子らがいます。

教経は斜陽の平氏を武で支え、数多くの説話を残した武士です。この記事ではそんな教経の生涯に迫ります。




平氏一門の都落ちまで

教経は1160年に教盛の次男として生まれました。母は藤原資憲の娘とされています。

教経が生まれた1160年以降、平氏は棟梁である清盛の働きにより、朝廷において徐々に権勢を高めていきました。

平氏一門のなかから官位に就く者が続出。教経も1166年に伯耆守から民部権大輔に、1179年には能登守を任命されます。また時期は不明ですが、正五位下にもなりました。

「平家にあらずんば人にあらず」という言葉が生まれるなど、平氏の興隆はまさに天にも届かんばかりでした。

しかしそれと同時に驕りも生まれました。周囲に対する傍若無人な振る舞いにより、敵も増えていきました。

教経が21歳になった1180年、ついに後白河法皇の皇子・以仁王が打倒平氏を掲げ挙兵。これに全国各地の反平氏勢力も呼応しました。

そんななか平氏の柱であった清盛が死去。以来、平氏は衰退の一途をたどっていきます。そして1183年、源義仲により平氏は都を追われてしまいました。

平氏最強の武士として各地を転戦

平教経-肖像画

源平合戦人物伝より引用(「平教経画像」赤間神宮蔵)

都落ちした平氏はこれ以降、厳しい戦いを強いられます。

そんな苦境のなかで活躍したのが教経でした。教経は京を離れてから各地でおこなわれた合戦において平氏を牽引。たびたび勝利を収めました。

特に水島の戦いでは味方を勇気づけ、義仲軍を討ち果たしました。

結果、平氏は福原(現在の兵庫県神戸市あたり)まで勢力を回復させることができました。

その後も教経は四国や九州などの反平氏勢力と交戦。都度、勝利を収めました。(六ヶ度合戦)

しかし1184年の一ノ谷の戦いでは源義経・範頼に敗北します。

なお、この一ノ谷の戦いでは教経の猛将ぶりをあらわす説話があります。

三草山の戦いで平資盛が義経に敗北したあと、平氏本陣では三草山方面の守備を固める武士を選んでいました。

ところが義経との激戦が予想される戦場に辞退する者が続出します。そこで平氏の棟梁・平宗盛は教経に白羽の矢を立てます。

このとき教経は以下のような回答をしたと伝えられています。

合戦は己一人の一大事と覚悟してこそ、よい結果が得られるものです。狩りや漁の如く足場のよい方には行こう、悪そうな方には行くまいなどと言っておりましては、戦いに勝つことはよもやありますまい。幾度であろうと、手強い方面にはこの教経が仰せのままに出陣致しましょう。その方面だけは打ち破ってみせましょうから、どうぞご安心下さいますよう。
引用:『【決定版】図説・源平合戦人物伝』「平教経」より

また三草山方面の守備を固めるなか、兄の通盛が妻・小宰相と同じ時間を過ごしていた際も「戦陣にあるまじき行為」と諫めたといいます。

これらの説話からも教経が平氏一門のなかで武に優れていたことがうかがい知れます。

ちなみに教経には一ノ谷の戦いで安田義定の軍勢に討たれたという説があります。




屋島の戦いで佐藤継信を討ち取る

一ノ谷の戦いで敗北した平氏は一度、屋島まで戻ります。

そこでしばらく態勢を整えますが、1185年2月に義経が屋島を急襲し、ふたたび源氏との合戦がはじまりました。

奇襲されたことで混乱し海上に退いた平氏軍でしたが、源氏軍が少数であることに気づき、矢で応戦します。特に教経の矢は鋭く、源氏軍の武士を次々射落としていきます。

教経は一矢を義経に向けて放ちます。しかし義経の郎党たちが矢面に立ち、これを防ぎます。そのなかには奥州平泉を出立してからずっと側にいた郎党・佐藤継信もいました。

教経の矢は継信の右の肩から左の脇腹まで撃ち抜きます。馬から落ちた継信。その首を取ろうと教経に仕えていた童・金王丸が近づいてきます。

それを継信の弟・佐藤忠信が矢で撃ち抜きました。教経は金王丸の死を悼み、合戦をやめてしまいました。

平氏は屋島を放棄し、平知盛が守る長門国の彦島へと向かいました。

平教経の最期

屋島を占拠した源氏はすぐに船を整え、彦島に進軍します。

九州を範頼によって占拠されていた平氏は退路がなく、ここで源氏軍を迎え撃つしかありませんでした。

屋島の戦いから約1ヶ月後の1185年3月、壇ノ浦の戦いがはじまります。

はじめは潮の流れにより有利に戦を進める平氏軍でしたが、潮の流れが変わったこと、平氏軍だった田口成良が裏切ったことなどが影響し、劣勢になっていきます。

最期を悟った一門は次々入水していきます。

そんななか教経だけはひとり奮戦していました。矢で射落とし、刀で斬り、散々に敵を討ち果たします。

それを見た知盛が教経に使いを出し、手当たり次第敵を斬ることをたしなめます。

知盛の言葉に教経は義経に狙いを定めます。しかし義経を捉えることはできませんでした。

義経を逃した教経は覚悟を決め、大力として知られた源氏軍の安芸太郎・次郎の兄弟と組み、ふたりを脇に抱え、そのまま海に身を投げました。享年26。

教経の入水後、知盛も最期を迎え、壇ノ浦の戦いは終結しました。

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