• HOME
  • 武家
  • 平将門とは?朝廷に反逆し、東国の王となった武士の一生

平将門とは?朝廷に反逆し、東国の王となった武士の一生

平安時代中期、京から遠く離れた東国で、独自の政権を樹立した武士がいました。

その武士こそ平将門その人。将門は当時、京から東国に派遣されていた国司を次々と追い返し、関東一円を占領した人物として知られています。

ところが、将門の東国支配は短い期間で終わりました。今回は、そんな将門の一生をご紹介します。




平良将の子として誕生

将門は9世紀後半〜10世紀前半に平良将の子として生まれました。

良将は、臣籍降下した平高望(高望王)の子で、9世紀後半に父とともに東国に下向。下総国を拠点に勢力を拡大し、東国における平氏繁栄の一翼を担いました。

将門は、そんな良将が治めていた下総国で誕生したといわれています。

若かりし頃の平将門

誕生後の将門がどのような生活を送っていたのかは詳しくわかっていません。

ただ、若い頃は京で藤原忠平に仕えていたといわれています。将門は忠平のもとで懸命に働き、一定の評価を得ることに成功していました。

ですがそれでも、かねてから希望していた検非違使には任じられず・・・。しばらくして将門は東国に戻り、下総国の東北部分を治め、その地で勢力を築いていきました。

平氏一族との争い

平将門演技

935年、将門は平真樹から源護との土地争いの調停を依頼されました。将門はこれを了承し、土地争いが起きていた常陸国に向かいます。

その途上、将門は護の子であった源扶や源隆、源繁の兄弟に襲撃されます。935年2月のことでした。

急に攻撃された将門でしたが、のちに反撃に転じ、扶ら兄弟を討ち取ります。この争いの戦火は護の娘婿であり、叔父でもあった平国香の領地にも及び、国香は巻き込まれる形で死去してしまいました。

それからしばらくあとの935年10月、今度は平良正が将門を討つために兵を起こします。良正も護の娘婿の一人。将門が源氏と対立してからは、源氏一族に味方していました。

良正の出兵を聞いた将門はすぐに出陣。両者は常陸国で戦い、将門が良正を敗走させることで終結しました。

このあとも将門は、平氏一族と争い続けます。

936年6月には平良兼や国香の嫡男・平貞盛らと争い、これを撃退。良兼と貞盛を下野国の国府まで追い詰めます。しかし将門は国府を攻めることなく、自分の領地に戻っていきました。

・平将門と平良兼について

良兼と将門は、かねてから不仲で知られていました。理由は土地争いと女性問題だったといわれています。将門が源氏一族や良正と対立した当初、良兼は争いに介入していませんでした。しかし良正が良兼に支援を頼んだことから介入し、両者は激突。以後、反将門勢力の中心となりました。

・貞盛の出兵について

国香の嫡男であった貞盛は当初、将門と争うつもりはありませんでした。むしろ、将門を襲撃した源氏一族や良正に非があると指摘しました。しかしのちに争いに介入した良兼や良正に諭されて、将門討伐の兵を起こしました。

いずれの戦いでも将門に敗れた護や貞兼、貞盛は、朝廷に将門の非を訴えます。そして将門追討の官符を出してもらうよう上表します。

これを受けて朝廷は将門を京に召喚。将門は京に上り、朝廷で弁明に努めました。その結果、朱雀天皇の元服が重なっていたこともあり、大赦を受けて無罪に。937年4月頃、将門は東国に戻ることができました。

それから4ヶ月後の937年8月頃、将門は再び貞兼・貞盛らと争いを起こします。しかし、この争いでは将門が敗北。勢力を削られるという手痛い結果となってしまいました。

ところが今度は、将門が朝廷に貞兼・貞盛らの非行を訴えます。これを受けて朝廷は、将門に貞兼・貞盛らの追討を命じる官符を発行。将門は再び勢いをつけ、東国での情勢を有利に進めていきました。

938年2月頃、再び貞盛が朝廷に将門の非を訴えます。この上表により朝廷は将門追討の官符を発行。朝廷のこの措置に将門は不満を述べ、官符を持って下向してきた貞盛らと争い、その勢力を駆逐していきました。




平将門の乱

将門が東国での争いで優勢となっていた939年2月頃、武蔵国の権守として興世王が赴任してきました。

しかしこの興世王は勝手に権守を名乗って武蔵国に入ってきた、とんでもない人物でした。このため武蔵介の源経基や足立郡の郡司・武藤武芝との間で諍いを起こしました。

将門は興世王と経基・武芝間の調停を模索します。ところが偶然、武芝の兵が経基の陣営を囲んだことから誤解が生まれ、経基はすぐに京に上洛。朝廷で興世王と将門が共謀し、謀反を企てているという報告をします。

これに対して将門はすぐに常陸国・下総国・下野国・上野国・武蔵国の5ヶ国の解文を送り、939年5月に上洛。謀反は事実無根だと弁明します。

解文:下級身分の者が上申する際に用いた文書の様式

将門の弁明を聞いた朝廷は、将門への疑いを晴らし、逆に経基を罰したといいます。

疑いが晴れた将門は、無事に東国に帰国しました。

その後、領地に戻った将門のもとに、常陸国の住人・藤原玄明(はるあき)が逃れてきます。

玄明は常陸介の藤原維畿(これちか)と対立後、将門に後ろ盾となってもらうために身を寄せてきたのでした。

一方、維畿は玄明の身柄を引き渡すよう将門に迫ります。

しかし将門は玄明を保護し、逆に維畿を攻め、国印と国府の鍵を奪ってしまいます。これにより常陸国は自身の支配下に。将門は正式に朝廷への反乱を示すことになりました。

続いて将門は939年12月、数千の兵を従えて下野国と上野国に攻め込み、国府を制圧。常陸国のときと同じように国印と国府の鍵を奪い、国司を京に追い返します。

この頃、将門はかつて仕えていた太政大臣・藤原忠平に、つぎのような文をしたためたといわれています。

このようなことになったのは将門の本意ではありません。一国を支配下に置いたことの罪は決して軽くはありませんが、将門は桓武天皇の五代の孫です。半国を治めてもおかしくはないでしょう。また昔から武力で国を取ることはよくあったことです。今、将門に武力で勝るものはありません。・・・・・・云々

将門は忠平に対して、常陸国や下野国、上野国を制圧したことの弁明をしたのでした。

その後も将門は、武蔵国や相模国などの諸国も制圧。続々と国司を京に追い返していきました。

そして東国の八国を制圧後、王城建設に着手。文武百官を置き、除目によって国司の任命までおこないます。この頃から将門は、自らを「新皇」と名乗るようになりました。




平将門の最期

平将門慰霊碑

940年1月、朝廷は将門追討の官符を発行します。藤原忠文を征夷大将軍に任じ、軍勢を東国に送ります。しかし朝廷の追討軍が将門討伐で活躍することはありませんでした。

朝廷が官符を発行した頃、将門は常陸国で貞盛の行方を捜索していました。この捜索で貞盛を見つけることができなかった将門は、自身の兵を本国へ戻してしまいます。

それから間もなく、貞盛が下野国の藤原秀郷とともに将門討伐を掲げ出兵。その数、4000人ほどだったといわれています。

940年2月、将門も貞盛と秀郷に対抗するため出陣します。ところが多くの兵を本国に戻していたため、将門の軍勢は1000人程度しか集まりませんでした。

合戦当日、両軍は激しく争います。戦いがはじまったときは有利に戦いを進めていた将門。

しかし時が経つにつれて徐々に劣勢となり、ついに退却してしまいます。将門は拠点を移しながら最終的に島広山(現在の茨城県坂東市岩井)にたどり着きます。

将門は追撃してきた貞盛・秀郷と最後の戦いに挑みます。この戦いでも最初は優勢だった将門軍。

しかし貞盛・秀郷軍が勢いを盛り返し、劣勢となります。そんな戦いの最中、将門は飛んできた鏑矢に当たって死去しました。

将門の首は京に運ばれ、晒し首になりました。

参考文献

平将門の叛乱について
日本経済史学者・松好貞夫氏が執筆。平安時代中期に起きた平将門の反乱について、朝廷に反逆した経緯から詳しく記載されている。また当時、政治の中心だった朝廷と東国の関係性から、反乱が起きた社会的背景に迫る。そのうえで朝廷の権威が及びにくい地方の軍事組織の存在が後世、武家の興隆を可能にしたのではないかという指摘をする。

ほかの記事はこちらから