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長田忠致とは?後世に汚名を残した尾張武士

長田忠致は平安時代末期の武士です。

『尊卑分脈』によると、藤原道長の四天王の一人・平致頼(むねより)の5世孫にあたるとされています。

当時、尾張国(愛知県)を拠点にしていました。




主・源義朝を騙し討ちにする

1159年、貴族間の政治的な対立がきっかけで「平治の乱」が起きます。

この乱は武士をも巻き込んだ大きな合戦で、勢力的に源氏と平氏の戦いでもありました。

平治の乱が起きた当初、源氏の棟梁・義朝は戦況を優位に進めていました。

しかし平氏の棟梁・平清盛が熊野参詣から戻ってからはすべてが後手に回り、合戦に敗退。義朝は京から東国に敗走します。

その途中に立ち寄ったのが尾張国の忠致の屋敷でした。忠致は源氏の家人で、義朝の側近・鎌田政清の舅でもあったためです。

心を許した義朝は忠致の屋敷でお風呂に入ります。お風呂に入る義朝の世話は金王丸という童子がおこなっていました。

その金王丸が水を汲みに外に出た瞬間、忠致は嫡男である長田景致や配下の武士とともに義朝を襲撃、首を討ち取ってしまいます。

このとき娘婿である政清も義朝と一緒に殺してしまいました。

討ち取られた義朝と政清の首は平清盛のもとに送られたといわれています。




平氏政権下での忠致と、その最期

義朝を討った忠致は、その功績から壱岐守に任じられます。

ところが忠致はこの賞に不満を示し、申し立てをおこないます。

忠致の申し立てに清盛は激怒。処罰しようとします。

しかし慌てて申し立てを取り下げたため、忠致は処罰されずに済みました。

それから数十年後の1180年に頼朝が挙兵すると、忠致は平氏から離反し頼朝側につきます。

そのとき頼朝は父親の仇である忠致に対して「大いに働いたら美濃尾張を与える」という約束をします。

頼朝のその言葉に懸命に働いた忠致。平氏追討でいくつかの功績も挙げました。

しかし平氏滅亡後に父の仇であるとして処刑されてしまいました。このとき頼朝は「約定通り”身の終わり”を与える」といった発言をしたと伝えられています。

忠致の辞世の句は、

ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまはり

なお、忠致の死についてはほかにも1180年の「鉢田の戦い」で戦死したという説があります。

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