妓王とは?恥辱に耐えられず出家した悲劇の白拍子の一生
妓王(ぎおう)は平安時代末期の白拍子です。
『平家物語』に登場し、近江国祇王村(現在の滋賀県野洲市)で生まれたといわれています。一説では平家の家人だった江部時久の娘とも。
今回は、妓王がどのような一生を送ったのかご紹介します。
平清盛の愛妾として
妓王の記録が見られるのは『平家物語』(第一巻 6「祗王」)です。
平家物語によると妓王は、朝廷で平氏の勢いが盛んだったころ、京でトップクラスの白拍子として名が広まっていました。そして、その話を耳にした平清盛の目に留まり、愛妾となります。
清盛は、妓王を愛妾にしてから西八条の邸内に住まわせます。さらに、母親である刀自(とじ)に対して米100俵、銭100貫の仕送りも行ないます。
これらの好待遇により、妓王の生活は一変。京中の白拍子から羨望の的となりました。
興隆からの転落
妓王が清盛の愛妾となってから3年ほどして、西八条の邸宅にある白拍子があらわれます。
その白拍子を「仏御前」といいます。
仏御前は「京で人気となっても清盛に召されなくては意味がない」と考え、半ば強引に清盛に目通りを願い出たのです。
清盛は仏御前を追い返そうとします。しかし、妓王がとりなしたことで、仏御前は清盛の前で舞を演じることができました。
仏御前の今様を聞き、舞を見た清盛は、その美しさにすっかり彼女を気に入ります。そして、そのまま邸内に住むことを勧めます。ですが、仏御前は妓王の手前、その誘いを渋ります。
すると清盛は、妓王を邸宅から追い出し、代わりに仏御前を邸内に住まわせることを決めたのです。
常日頃、「いつ追い出されてもおかしくない」と考えていた妓王ですが、あまりに急な出来事に衝撃を受けます。それからというもの、どんな招きにも応じず、引き籠りの生活を送ることになります。
引き籠りの生活に入ってからしばらくして、清盛から「仏御前を慰めるために参上せよ」という旨の使いがあらわれます。はじめは渋っていた妓王ですが、清盛の命令には逆らえず、泣く泣く清盛のもとを訪れました。
そして、そこで以下の今様を歌ったとされています。
仏も昔は凡夫なり 我らも終には仏なり いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそかなしけれ
妓王は自分の身の上に起きた恥辱に耐えられず、その思いを歌に込めたのでした。この歌を聞いた清盛をはじめ、平氏一門はみんな感涙したといわれています。
その後、妓王は「白拍子でいる限り、またこのような恥辱を味わうことになる」と思い、刀自や妹の妓女とともに出家。嵯峨野に草庵を設けて、念仏を唱える日々を送りました。
妓王に関する逸話
妓王に関する逸話として、故郷である近江国祇王村に水路をつくって欲しいと清盛に頼んだというのがあります。
この水路は「祇王井川」と呼ばれ、今でも現存しています。