石橋山の戦いとは?勝者は?わかりやすく解説
平安時代末期に平氏を滅亡させた源氏。
その棟梁であった源頼朝は挙兵当初、現在の神奈川県小田原市の石橋山で平氏と合戦をします。今に伝わる「石橋山の戦い」です。
頼朝にとっては大事な一戦。しかしあまりに戦力差があったことから敗北を喫してしまいます。それと同時に頼朝を慕って参陣してくれた大切な郎党たちも失います。
これにより頼朝の挙兵は出鼻を挫かれた形となりました。そんな石橋山の戦いはどのような合戦だったのでしょうか。
今回は平氏が圧倒し、源氏を打ち負かした石橋山の戦いをわかりやすくご紹介します。
以仁王の令旨が頼朝のもとに
1180年4月、伊豆に幽閉されていた頼朝のもとに以仁王から平氏打倒の令旨が届きます。
以仁王は後白河法皇の皇子で、かつては皇位継承の有力候補とされていた人物でした。しかし平氏に妨害されるなどし、皇位継承権を失います。
また、「治承三年の政変」によって平氏に知行国も没収されます。こうした平氏の仕打ちに以仁王は我慢できず、源頼政とともに平氏打倒の挙兵を決意します。
以仁王は全国各地の源氏に挙兵の令旨を送ります。そのひとつが頼朝のもとに届けられたのでした。
源頼朝の挙兵
しかし頼朝は令旨が届いてもすぐに挙兵しませんでした。
頼朝が正式に挙兵するのは、令旨が届いてから4ヶ月後の1180年8月。それまで頼朝は京の情勢を静観していました。
そんななか、1180年5月に以仁王と頼政の挙兵計画が平氏に漏洩。両者は準備が整わないなか挙兵することになります。
以仁王も頼政も劣勢のなか奮戦。しかし南都に逃げる途上、宇治平等院で討ち取られてしまいました。
そのあとすぐに平氏は各地の源氏を追討する計画を立てます。頼朝のもとにも三善康信から伊豆を離れることを伝える文書が届けられたりしました。
さらに平氏方の大庭景親が本領に下向。これは、伊豆に滞在していた頼政の孫である源有綱を捕縛するためでした。
緊張が高まるなか頼朝は郎党に命じて、昔からの源氏の家人の動向を探ります。
その後、信頼を寄せていた土肥実平、岡崎義実、天野遠景、工藤茂光、加藤景廉、佐々木盛綱らをひとりずつ呼び寄せ、特に信頼し頼りにしている旨を伝え、彼らの奮起を促します。
そして1180年8月、頼朝はついに挙兵しました。
山木兼隆を襲撃
頼朝はまず、平氏方で伊豆国の目代であった山木兼隆を襲撃します。
襲撃の日は三島大社の祭礼の日であり、兼隆の郎党の多くは参詣のため出払っていました。
頼朝軍はすぐに館を囲い、矢を放ち、刀を持って戦いました。しかし兼隆軍の抵抗が激しく、なかなか兼隆を討ち取ることができません。
襲撃成功の合図であった火の手が上がらず、頼朝は焦りを感じます。頼朝は守備軍であった景廉や盛綱らを呼び、大刀を授け、兼隆の首を取ってくるよう命じます。
景廉と盛綱が加わった頼朝軍はさらに勢いを増し、ついに兼隆を討ち取ることに成功します。館が燃えるのを見た頼朝は安堵しました。
石橋山の戦い
兼隆を討ち取った頼朝軍でしたが、それでも伊豆一国を支配するほどの人員がいませんでした。
頼朝は伊豆を出て土肥実平の所領であった相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)まで移動。そこで頼りにしていた三浦一族の到着を待つことにします。
しかし平氏方の大庭景親が頼朝を討つため南下。その数はおよそ3000騎。これに対して頼朝は300騎を率いて北上します。石橋山で陣を張り、景親を迎え撃つ体制を整えます。
ところが南から平氏方の伊東祐親があらわれます。頼朝は北の景親軍、南の祐親軍に挟まれる形となります。
合戦当日、この日は大雨でした。頼りにしていた三浦一族の軍勢は増水した酒匂川に阻まれ、進軍できずにいました。
頼朝軍が劣勢のなか、ついに両軍が刃を交えます。頼朝軍は数に勝る景親軍、祐親軍に対して奮戦。少数で多数の相手をしました。
ですが多勢に無勢ということもあり、奮戦虚しく大敗を喫します。この合戦の最中、岡崎義実の子・佐奈田義忠も討ち死にします。
山中で散り散りになった頼朝軍の武士たちは、景親軍、祐親軍の追撃によって各所で討ち取られていきます。
戦場を脱した頼朝は土肥郷の椙山(すぎやま)まで逃げ延びました。
源頼朝のその後
椙山まで逃げ延びた頼朝のもとには、戦場を脱した郎党たちが集まってきます。
頼朝は郎党たちの忠節に感激しますが、景親と祐親の軍勢も迫ってきます。郎党たちは頼朝を守るため、敵に向かっていきます。頼朝も弓を取り、敵方の武士を討ち取ります。
ここで実平が、各々逃げ延び再起を図る際に再び集まることを提案。郎党たちは承諾し実平に頼朝を任せ各地に散っていきました。
頼朝は実平の案内に従って景親と祐親の軍勢をやり過ごすため、「しとどの窟(いわや)」に身を潜めます。
この窟にも景親軍が迫ります。景親軍の梶原景時は窟に隠れる頼朝を見つけました。
しかし景親に頼朝がいないことを伝え、去っていきます。景親軍、祐親軍がいなくなってから頼朝は真鶴から船で房総まで逃走。ここに石橋山の戦いは終結しました。
なお、景時はのちに頼朝を見逃した功績により鎌倉幕府の要職に就きます。