平基盛とは?若くして病に倒れた平清盛次男の一生
平基盛は平安時代末期の武士です。
1139年に生まれました。父は平清盛で母は高階基章の娘と伝わります。
同母兄弟に平重盛。嫡男には「壇ノ浦の戦い」で入水した平行盛がいます。
「保元の乱」「平治の乱」で活躍
基盛は生まれてから16年後の1155年に、鳥羽法皇から院判官代に補されます。
そして、翌日には左兵衛尉、同年11月には左衛門少尉となり、12月には検非違使の宣旨を受けます。
以上のように基盛は、若いときから官人組織のひとりとして働いていました。
そんな基盛が武士としての力を発揮したのが、1156年に起きた「保元の乱」でした。このとき、基盛は父である清盛とともに後白河方として出陣。
宇治路を警護し、東山法住寺のあたりで、京に進軍していた崇徳方の源親治を捕らえる功を立てました。
これにより、基盛は戦後、蔵人に任じられ、従五位下に叙されました。それからしばらくして、大和国や淡路国の国司にも任命されました。
また、保元の乱から3年後の1159年の「平治の乱」でも基盛は活躍します。
この乱が起きたとき、清盛をはじめとする平家一門は熊野参詣の途中でした。もちろん、そのなかには基盛もいました。
清盛は京で乱が起きたことを知ると熊野参詣を中止。乱の首謀者である藤原信頼の油断を誘いながら当時本拠地であった六波羅へ戻ります。
その後、乱を招いた人物たちを撃破。このとき、基盛も何かしらの功を立てたと考えられます。
そして、平治の乱のあと、基盛は平家一門の有力者として、左衛門佐や内蔵頭、遠江守、越前守を歴任することになります。
平基盛の最期と死因
平治の乱のあと徐々に出世をしていった基盛。このまま何事もなく、官職を歴任して、位階を上げていくかと思われました。
ですが、親族である平時忠と平教盛が1161年に「憲仁親王皇太子擁立の疑い」で解官。すると、この事件に関わっていないと思われる基盛も、同じタイミングで左衛門佐を解かれてしまいます。ただ、その直後から紫宸殿造営を任されることになりました。
ところが、紫宸殿の完成と同時期に、基盛は病によりこの世を去ります。1162年のことでした。享年24。
定説における死因は病と考えられていますが、『源平盛衰記』では藤原頼長の怨霊によって宇治川で溺死させられたといわれています。