源頼朝とは?何をした人?その生涯から功績までご紹介

武家
源頼朝の生涯

源頼朝は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍し、鎌倉を本拠とする武家政権の基礎を築いた人物です。

平治の乱で父・源義朝を失い、伊豆へ流されたのは13歳のとき。それから約20年後の1180年に挙兵すると、東国の武士たちをまとめながら勢力を拡大し、やがて平氏や奥州藤原氏を滅ぼしました。

その後、1192年には征夷大将軍に任じられます。

かつては「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と覚えた方も多いでしょう。しかし現在では、鎌倉幕府は1192年のある日に突然誕生したのではなく、頼朝が東国で獲得した権力を徐々に制度化していったことで成立したと考えられています。

この記事では、源頼朝とはどんな人物だったのか。流人だった少年がどのようにして武士の頂点に立ったのか、その生涯を追いながら功績や人物像についても紹介します。

源頼朝とはどんな人物?

源頼朝肖像画

(AIでイメージを作成)

源頼朝は、久安3年(1147)に源義朝の三男として生まれました。

父の義朝は河内源氏の流れをくみ、東国に勢力を築いた武将です。しかし平治元年(1159)の平治の乱で平清盛らに敗れ、その後、殺害されました。

頼朝も捕らえられましたが処刑を免れ、伊豆へ配流されます。

その後、およそ20年間を流人として過ごした頼朝に転機が訪れたのが、治承4年(1180)でした。

以仁王の令旨を受けて平氏に対して挙兵。当初は石橋山の戦いで敗北するものの、安房へ逃れた後、千葉常胤や上総広常ら東国の有力武士を味方につけて急速に勢力を拡大します。

同年には鎌倉へ入り、ここを本拠地としました。

その後は自ら各地を転戦するというより、鎌倉に留まりながら源範頼・源義経をはじめとする武将を派遣して平氏との戦いを進めていきます。

平氏滅亡後には朝廷から各地に対する軍事・警察権などを認められ、文治5年(1189)には奥州藤原氏を滅ぼしました。

そして建久3年(1192)、征夷大将軍に任命されます。

そんな頼朝という人物を考えるうえで重要なのは、「戦争に強かった武将」というよりも、東国の武士たちを組織し、彼らを統率する政治的な仕組みを鎌倉に作り上げた点です。頼朝によって、それまで朝廷や貴族を中心としていた日本の政治に、武士による新たな権力が生まれていくことになります。

源頼朝の生涯を年表で簡単に紹介

頼朝の生涯を年表で確認しておきましょう。

年 源頼朝の主な出来事
1147年 1歳|源義朝の子として誕生
1159年 13歳|平治の乱に参加
1160年 14歳|伊豆へ配流される
1180年 34歳|以仁王の令旨を受け挙兵
1180年 34歳|石橋山の戦いで敗北
1180年 34歳|鎌倉へ入る
1180年 34歳|富士川の戦い
1183年 37歳|朝廷から東国支配を事実上認められる
1184年 38歳|源義仲を滅ぼし、平氏追討を進める
1185年 39歳|壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡
1185年 39歳|守護・地頭設置につながる権限を獲得
1189年 43歳|奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす
1190年 44歳|上洛
1192年 46歳|征夷大将軍に任官
1199年 53歳|死去

この年表を見ると、頼朝の人生は大きく

「平治の乱以前」
「約20年間の伊豆配流」
「1180年以降の鎌倉時代」

の三つに分けられます。

なかでも注目したいのが、1180年から1192年までの約12年間です。

鎌倉を本拠とし、東国を支配し、平氏や奥州藤原氏を滅ぼし、朝廷からさまざまな権限を獲得していく。この積み重ねの先に征夷大将軍への任官がありました。

源頼朝は源氏の棟梁・源義朝の子として生まれる

ここから頼朝の人物史を見ていきましょう。

前述しましたが、頼朝は久安3年(1147)、源義朝と由良御前の間に生まれました。

『吾妻鏡』巻首には頼朝について、

「左馬頭兼播磨守義朝三男母熱田大宮司散位藤原季範女」

とあり、義朝の三男で、母は熱田大宮司・藤原季範の娘だったと記されています。

父の義朝は河内源氏の流れをくむ武将で、若いころから関東へ下向し、南関東を中心として勢力を広げていました。そのため、後に頼朝が関東で挙兵した際にも、父・義朝の時代から源氏と関係を持っていた武士たちの存在がありました。

頼朝は義朝の三男でしたが、それでも後に源氏の中心人物となった背景には、母の家柄や官位、平治の乱後に義朝の有力な男子が相次いで失われたことなど、複数の事情があります。

頼朝が後に「源氏の棟梁」として東国武士をまとめられたのは、単純に源氏の血を引いていたからではありません。父・義朝から受け継いだ政治的な基盤や頼朝自身の立場が大きく関係していたと言えます。

平治の乱で父・源義朝を失い伊豆へ流される

頼朝の人生を大きく変えたのが、平治元年(1159)に起こった平治の乱です。

父・義朝は藤原信頼らとともに挙兵しましたが、平清盛らに敗北。京都から東国へ逃れる途中、尾張国で殺害されました。

当時13歳だった頼朝も父とともに東国を目指しますが、途中ではぐれてしまい、やがて平氏方に捕らえられます。

本来ならば、反乱を起こした義朝の子である頼朝も処刑されても不思議ではありませんでした。

しかし頼朝は命を助けられ、伊豆国へ流されます。

頼朝助命をめぐって有名なのが、平清盛の継母にあたる池禅尼が助命を嘆願したという逸話です。『平治物語』などの後世の軍記物語では、池禅尼が頼朝を亡くなった息子・家盛に似ているとして助命を願った話が描かれています。

さて、頼朝が処刑を免れ、配流されたのは伊豆。永暦元年(1160)のことでした。このとき頼朝は14歳。ここから約20年間にわたる流人生活が始まりました。

伊豆で約20年間の流人生活を送る

伊豆へ流された頼朝は、すぐに再起したわけではありません。1180年に挙兵するまで、およそ20年間を伊豆で過ごしました。

「流人」と聞くと、牢獄のような場所に閉じ込められていた姿を想像するかもしれません。しかし、当時の頼朝は、一定の監視を受けながらも比較的自由に生活していたと考えられています。

この時期に頼朝と深く関わったのが、伊豆の武士たちでした。特に有名なのが伊東祐親と北条時政です。『吾妻鏡』には、頼朝が伊東祐親の娘と関係を持ち、男子をもうけたものの、祐親によってその子が殺害されたという話が記されています。

その後、頼朝は北条時政の娘・北条政子と結ばれます。政子との結婚は、後の頼朝にとって極めて大きな意味を持ちました。1180年に頼朝が挙兵すると、時政をはじめとする北条氏は頼朝側に立ちます。

伊豆で過ごした20年間は、単なる空白期間ではありませんでした。後に頼朝を支える人々との関係が形成され、東国の政治情勢を知る期間でもあったのです。

源頼朝はなぜ1180年に挙兵した?

治承4年(1180)、頼朝33歳のときに大きな転機が訪れます。後白河法皇の皇子・以仁王が平氏追討を呼びかけ、源頼政とともに挙兵したのです。このとき、諸国の源氏に伝えられたのが、いわゆる「以仁王の令旨」でした。

頼朝のもとにも令旨が届けられます。しかし、頼朝は令旨を受け取ってもすぐに立ち上がりませんでした。

以仁王と頼政の挙兵は間もなく鎮圧され、以仁王も命を落としました。また、平氏側が諸国の源氏を警戒するなか、頼朝自身も危険な立場へ追い込まれていきます。

こうした情勢のなかで頼朝は挙兵を決断しました。最初に狙ったのが、伊豆における平氏方の有力者・山木兼隆です。

治承4年8月17日、頼朝方は山木館を襲撃。約20年間流人だった頼朝が、ついに武力によって平氏政権へ対抗する道を選んだ瞬間でした。

石橋山の戦いで大敗し、安房へ逃れる

頼朝の挙兵は、決して順調なスタートではありませんでした。山木兼隆を討った頼朝は相模国へ進出しますが、大庭景親を中心とする平氏方の軍勢がこれを迎え撃ちます。

治承4年8月23日、石橋山で両軍が激突しました。今でいう石橋山の戦いです。

兵力で劣る頼朝軍は惨敗。頼朝は山中へ逃れ、わずかな従者とともに平氏方の追跡をかわすことになります。

このとき頼朝を見逃したという逸話で知られるのが、後に頼朝の側近となる梶原景時です。

『吾妻鏡』8月24日条には、景時が頼朝の居場所を知りながら「有情の慮」をもって大庭景親らを別の山へ導いたことが記されています。

石橋山での敗北だけを見れば、頼朝の挙兵はここで終わっていてもおかしくありませんでした。しかし、頼朝は真鶴から海を渡り、安房国へ逃れます。

ここから状況は一変します。石橋山でわずかな軍勢しか持たなかった頼朝のもとに、東国の武士たちが次々と集まってくるのです。

房総半島で勢力を拡大し鎌倉へ入る

安房へ渡った頼朝は、房総半島の有力武士に協力を求めました。そのなかでも重要だったのが、千葉常胤と上総広常です。

下総の有力武士だった千葉常胤は頼朝に味方し、上総国に大きな勢力を持っていた上総広常も加わります。こうして頼朝軍は急速に膨れ上がっていきました。

『吾妻鏡』に記された軍勢の人数については誇張の可能性を考える必要がありますが、少なくとも石橋山で敗れた直後とは比較にならない勢力を頼朝が獲得したことは間違いありません。そして治承4年10月6日、頼朝は鎌倉へ入りました。

鎌倉市も、1180年に頼朝が鎌倉へ入り、ここを本拠として武士による新たな政権を形成していったと説明しています。頼朝にとって重要だったのは、単に軍勢が増えたことだけではありません。頼朝のもとへ集まった武士たちは、やがて「御家人」として鎌倉殿である頼朝との主従関係を形成していきます。

平氏政権に反旗を翻した一人の流人から、東国武士の頂点に立つ「鎌倉殿」へ。頼朝の立場は、わずか数か月で大きく変わったのです。

源頼朝はなぜ鎌倉を本拠地にした?

頼朝が本拠地に選んだのが鎌倉でした。鎌倉については「三方を山に囲まれ、一方が海なので守りやすかった」と説明されることがあります。

たしかに地形は重要な要素です。しかし、それだけで頼朝が鎌倉を選んだわけではありませんでした。鎌倉は頼朝の父・義朝とも関係の深い土地でした。さらに、『吾妻鏡』治承4年9月9日条では、千葉常胤が頼朝に対して鎌倉を本拠とするよう進言しています。

頼朝は鎌倉に入ると、祖先の源頼義が由比郷に祀った八幡宮を現在の鶴岡八幡宮付近へ遷し、源氏の守護神である八幡神を中心とした都市づくりを進めていきました。その後、鎌倉には頼朝の御所や御家人の屋敷が置かれ、武士たちの政治的な中心地となっていきます。

つまり鎌倉は、頼朝にとって単なる「天然の要害」だけでなく、源氏との歴史的なつながりがあり、東国武士を統率するための政治的な拠点として選ばれた土地でもあったのです。

富士川の戦いを経て東国支配を優先する

頼朝が鎌倉へ入った同じ月、平氏は頼朝追討の軍勢を東国へ派遣しました。

治承4年10月、両軍は駿河国の富士川を挟んで対峙します。しかし、平氏軍はろくに合戦をせずに富士川から撤退します。『平家物語』などの軍記物語では、夜に飛び立った水鳥の羽音を源氏軍の襲撃と勘違いした平氏軍が逃走した、とされています。

平氏軍が退却したあと、頼朝はそのまま京へ向かわず、鎌倉へ戻ります。『吾妻鏡』では、千葉常胤や三浦義澄、上総広常らが、まず東国を固めるべきだと頼朝に進言したとされています。

頼朝は自ら京へ攻め上って平氏を倒すことより、まず自らの政治的・軍事的基盤となる東国を安定させることを優先しました。ここに、単なる「平氏を倒す武将」とは違う頼朝の姿を見ることができます。

源義仲を滅ぼし平氏を壇ノ浦へ追い詰める

頼朝が東国の支配を固めている間も、全国的に平氏と反平氏勢力の戦況は大きく動いていました。

その反平氏勢力を率いていた一人が木曽義仲です。

義仲は頼朝と同じ河内源氏の一族で、信濃・北陸方面から勢力を拡大。寿永2年(1183)には平氏を京から追い出しました。

しかし、その後は後白河法皇と対立します。そんな義仲を討伐するため、頼朝は弟の源範頼と源義経を京へ派遣。寿永3年(1184)、宇治川の戦いや粟津の戦いなどを経て義仲を滅ぼしました。

その後、範頼・義経らは平氏追討へ向かいます。

一ノ谷の戦い、屋島の戦いを経て、元暦2年(1185)3月24日の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。

これらの合戦において、頼朝自身は戦場にて指揮をとりませんでした。自身は鎌倉にとどまり、弟たちや御家人を派遣することで戦争を進めました。

自ら最前線で戦うのではなく、鎌倉から人事や軍事を統率する。

この点も、頼朝が単なる武将ではなく、政治的な権力者であったことを示しています。

源頼朝と源義経はなぜ対立した?

平氏との合戦において大きな活躍を見せたのが、源義経です。平氏滅亡の立役者であると言っても過言ではありません。

しかしその後、頼朝と義経の関係は急速に悪化していきます。

この対立については、

「義経が頼朝に無断で官位をもらったため、頼朝が激怒した」

という説明がよく知られています。

たしかに義経の任官問題は、両者の関係を考えるうえで重要です。しかし、それだけが兄弟の対立を招いた原因とは言えません。

頼朝は、東国の武士たちを自らの統制下に置こうとしていました。

一方で、義経は平氏追討の現場で指揮官として大きな権限を持っていました。

さらに、『吾妻鏡』元暦2年(1185)4月21日条には、義経の軍に付けられていた梶原景時が鎌倉へ書状を送り、義経の行動を批判したことも記されています。

『吾妻鏡』自身も、義経に対する御家人の不満は景時だけに限らなかったと記しています。

つまり、頼朝と義経の対立は、単なる兄弟喧嘩ではなく、任官問題、御家人統制、軍事指揮をめぐる問題、そして鎌倉を中心とした新たな政治秩序の形成など、複数の事情が絡んでいたと考えられます。

義経はやがて頼朝から追われ、奥州藤原氏を頼って平泉へ逃れました。

頼朝は守護・地頭を通じて全国へ影響力を広げる

平氏が滅亡したからといって、頼朝がただちに全国を支配したわけではありません。頼朝にとって大きな転機となったのが、義経・源行家の追討でした。

文治元年(1185)、頼朝は朝廷との交渉を通じて、諸国に軍事・警察的な権限を持つ武士を置き、荘園・公領にも地頭を配置していく足掛かりを得ます。

後世、これが守護・地頭制度の成立として説明されるようになりました。

ただし、「1185年のある日に全国すべての国へ守護、すべての荘園へ地頭が一斉に配置された」わけではありません。実際の制度形成は、既存の追捕使や惣追捕使、各地の荘園・公領との関係を含め、より複雑な過程をたどっています。

それでも、頼朝の権力は東国だけにとどまらず、西国を含む全国へ影響を及ぼすようになっていったのです。

奥州藤原氏を滅ぼし全国的な武家の棟梁へ

頼朝の支配が全国へ広がるなか、最後まで大きな独立勢力として残っていたのが奥州藤原氏でした。

奥州藤原氏は平泉を中心として東北地方に大きな勢力を築き、藤原秀衡は頼朝から逃れてきた義経を保護しました。

ところが、秀衡の死後、その跡を継いだ藤原泰衡は頼朝からの圧力を受けます。

文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は衣川館にいた義経を襲撃。義経はここで最期を迎えました。

しかし、義経が死んでも頼朝と奥州藤原氏の対立は終わりませんでした。

頼朝は朝廷に奥州追討の許可を求めながら、同年7月に自ら大軍を率いて鎌倉を出発します。

奥州合戦です。頼朝軍は奥州藤原氏の軍勢を破りながら北上し、最終的に泰衡も殺害されました。

約100年にわたって平泉を中心に繁栄した奥州藤原氏は、ここに滅亡します。

源頼朝はなぜ征夷大将軍になった?

奥州藤原氏を滅ぼした翌年、建久元年(1190)、頼朝は初めて上洛します。朝廷から権大納言、右近衛大将に任じられますが、頼朝は間もなくこれらの官職を辞任しました。

そして建久3年(1192)7月、後白河法皇の死後、頼朝は征夷大将軍に任じられます。

かつては、この1192年をもって「鎌倉幕府が成立した」とする説明が一般的でした。

しかし現在では、幕府の成立を1192年だけで説明することは少なくなっています。

頼朝の政権は、

1180年:鎌倉を本拠として東国武士を組織する
1183年:朝廷から東国支配を事実上認められる
1184年:公文所・問注所を設置する
1185年:守護・地頭につながる権限を獲得する
1190年:上洛し朝廷との政治的関係をさらに確立する
1192年:征夷大将軍に任じられる

という段階を経て形成されました。

そのため、鎌倉幕府の成立時期については1180年、1183年、1184年、1185年、1190年、1192年など複数の考え方があります。

1192年の征夷大将軍任官は重要な出来事ですが、それ以前から頼朝は鎌倉を中心とした政治権力を築いていました。

「1192年に頼朝が鎌倉幕府を作った」というよりも、1180年から積み重ねてきた武家政権形成の過程に、1192年の征夷大将軍任官があったと考える方が実態に近いでしょう。

源頼朝の最期

征夷大将軍となった頼朝は、その後も朝廷との関係を維持しながら鎌倉政権の安定を図りました。建久6年(1195)には妻の北条政子や子供たちを伴って再び上洛しています。

しかし、その約4年後の建久10年(1199)1月13日、頼朝は亡くなりました。数え年で53歳でした。

有名なのが「落馬によって死亡した」という説です。

しかし、『吾妻鏡』では建久7年(1196)から建久10年(1199)1月までの記事が欠けており、頼朝が亡くなった当時の経緯を追うことができません。

頼朝の落馬が『吾妻鏡』に登場するのは、死から約13年後の建暦2年(1212)2月28日条です。

そこでは相模川に架けられた橋について触れた際、頼朝が橋供養からの帰路に落馬し、それからほどなく亡くなったと振り返っています。

一方、ほかの史料には頼朝が病気だったことをうかがわせる記録もあります。そのため、「落馬による怪我が直接の死因だった」と言うことはできません。

平治の乱で敗者となり、伊豆へ流された少年は、約40年後、武士たちの頂点に立つ存在となってその生涯を終えました。

源頼朝は何をした人?その功績を振り返る

ここまで頼朝の生涯を見てきました。

では結局、源頼朝は何をした人物だったのでしょうか。

最も大きな功績は、東国の武士たちを自らのもとへ組織し、鎌倉を中心とする武家政権の基礎を築いたことです。

頼朝以前にも、平清盛をはじめ政治の中枢へ進出した武士はいました。

しかし、頼朝が築いた政権の特徴は、京都ではなく鎌倉を政治的な本拠とし、東国武士との主従関係を権力の重要な基盤としたことにありました。

頼朝は御家人の所領を保障し、新たな所領を与える一方、御家人たちは軍役や警護などによって頼朝に奉仕しました。

さらに平氏、源義仲、奥州藤原氏といった対抗勢力を排除し、朝廷との交渉を通じて地方へ介入する権限を拡大していきます。

重要なのは、頼朝が朝廷そのものを滅ぼしたわけではないことです。

天皇や上皇、公家社会、荘園など従来の政治・社会制度を残しながら、その中に武士を統率する新しい政治権力を築きました。

この仕組みが頼朝の死後も受け継がれ、武士が政治の中心となる時代が長く続いていくことになります。

源頼朝はどんな政治を行った?

頼朝の政治を考えるうえで中心となるのが、「鎌倉殿」と「御家人」の関係です。

鎌倉殿とは、鎌倉にいる武家の主君を意味します。頼朝は御家人の所領支配を認めたり、新たな土地を与えたりすることで彼らの権利を保障しました。

御家人側はその見返りとして、戦争への参加や京都・鎌倉の警護などを担います。後世「御恩と奉公」と整理される主従関係です。

頼朝はまた、鎌倉に政治機構を整えていきました。軍事・御家人統率を担う侍所、一般政務を扱う公文所、訴訟などを扱う問注所などです。公文所は後に政所へ発展しました。

さらに、1185年以降、守護・地頭などを通じて地方社会へ介入する仕組みも広がっていきます。

ただし、頼朝の政治は朝廷から完全に独立したものではありません。

頼朝は朝廷から官職や権限を得ながら、自らの支配を広げました。朝廷と武家政権が併存するという、その後の中世日本へ続く政治構造の基礎が、この時代に形成されていったのです。

源頼朝はどんな性格だった?

頼朝には「冷酷」「猜疑心が強い」といったイメージがあります。その背景には、頼朝が自らの権力を脅かす可能性のある人物を次々と排除したことがあります。

たとえば、義経の追討。範頼の失脚です。頼朝の挙兵当初から大きな軍事力を提供した上総広常も、寿永2年(1183)に梶原景時によって殺害されています。

こうした出来事だけを見ると、頼朝は冷酷な人物だったように見えます。

しかし、頼朝の性格については頼朝自身が置かれた立場を考慮しなければなりません。

当時の頼朝は、多数の有力武士をまとめながら、朝廷とも交渉し、自らの政権を維持しなければならない立場にありました。そのため、頼朝の行動には、個人的な感情だけでなく、反乱や離反を防ぎ、鎌倉殿を頂点とする政治秩序を維持する意図があったと考えられます。

さらに、『吾妻鏡』には、御家人を気遣ったり、功績に報いたりする頼朝の姿も描かれています。

頼朝がどのような場面で厳しい判断を下し、どのように御家人との関係を維持していたのか。

頼朝の性格を考える際は、そうした史料に残された行動も見ていく必要があります。

源頼朝の家族・兄弟

頼朝には多くの家族、兄弟がいます。

源頼朝の父・母

父は源義朝、母は由良御前です。

由良御前は熱田大宮司・藤原季範の娘で、『吾妻鏡』巻首にも頼朝の母として記されています。

父・義朝は平治の乱で敗れて亡くなりましたが、義朝が東国で築いた基盤は、後に頼朝が関東で勢力を形成する際に大きく貢献しました。

源頼朝の兄弟

頼朝には多くの異母兄弟がいました。

兄 源義平・朝長
弟 希義・範頼・義経

などです。

なかでも頼朝の東国における政権の構築に大きく関わったのが範頼と義経でした。

二人は頼朝の命令を受けて平氏追討などで活躍しました。

源頼朝の妻

頼朝の正妻は北条政子です。二人は頼朝が伊豆に流されていた時代に結ばれました。

政子の父・北条時政は頼朝の挙兵に参加し、北条氏はその後の鎌倉幕府で重要な位置を占めるようになります。

頼朝の死後、政子は出家しながらも幕府政治に大きな影響力を持ち続けました。

源頼朝の子供

頼朝と政子の間には

  • 大姫
  • 頼家
  • 三幡
  • 実朝

がいます。

また、政子以外に伊藤祐親の娘との間に男子がいたと言われています。

頼朝没後、頼家が後継者となり、後に2代将軍となります。その後、弟の実朝が3代将軍となりました。

しかし頼家・実朝ともに非業の死を遂げ、実朝が建保7年(1219)に暗殺されたことで、頼朝の男子の系統による源氏将軍は途絶えることになります。

源頼朝の肖像画は本当に本人なのか?

黒い束帯をまとい、鋭い目つきで座る男性の肖像画。最も知られている、京都・神護寺に伝わる「伝源頼朝像」です。

長い間、頼朝の肖像として教科書などにも掲載されてきました。

ところが、この肖像が本当に源頼朝を描いたものなのかははっきりしていません。

その肖像画には別人説があり、現在も研究が続いています。そのため現在は、「源頼朝像」とするのではなく、「伝源頼朝像」と表記されることがあります。

源頼朝の墓はどこにある?

源頼朝の墓は、現在の神奈川県鎌倉市西御門にあります。

鶴岡八幡宮から東へ進んだ山腹にあり、国指定史跡「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の一部となっています。

頼朝が亡くなった後、その遺体は持仏堂に葬られ、この場所は後に法華堂と呼ばれるようになったとされています。

ただし、現在見ることのできる石造の墓塔が、頼朝死去当時からあるわけではないようです。

さいごに

源頼朝の人生は、決して最初から権力者になることが約束されていたものではありませんでした。

平治の乱で父・義朝を失い、自らも捕らえられ、14歳で伊豆へ流されます。

それから約20年。
1180年に挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで敗北しながらも、東国の武士たちを味方につけて着々と政治的・軍事的基盤を鎌倉につくっていきました。

そして、鎌倉幕府の成立を境として、武士は日本の政治において中心的な役割を担うようになりました。その点、頼朝は武士の時代へと大きく歴史を動かした人物だったと言えます。