梶原景時はなぜ源頼朝を助けた?石橋山の戦いで見逃した逸話は史実なのか?

雑学
梶原景時はなぜ源頼朝を助けたのか

梶原景時と源頼朝の関係を語るうえで欠かせないのが、1180年(治承4年)の石橋山の戦いです。ゆくゆく頼朝から重用される景時ですが、この戦いでは敵方にいながら、山中に逃れた頼朝を見逃したと伝えられています。

しかし、なぜ景時は敵である頼朝を助けたのでしょうか。また、よく知られている「洞窟で頼朝と対面した」という話は事実なのでしょうか。

この記事では、『吾妻鏡』『愚管抄』などの史料を比較しながら、石橋山の逸話と、その後の頼朝と景時の関係について考察してみます。

梶原景時と源頼朝の関係

梶原景時は、源頼朝が幕府を開いていく過程で重用した御家人の一人です。

頼朝に仕えてからは源平合戦などに参加したほか、戦況を鎌倉へ報告し、侍所の所司として御家人の統率にも関わりました。

1192年(建久3年)には、和田義盛に代わって侍所の長官となったとされています。

このように頼朝の側近として活動した景時ですが、二人の関係を語るうえで有名なのが1180年(治承4年)の石橋山の戦いです。

『吾妻鏡』では、このとき景時は大庭景親らとともに頼朝を追う側にいました。しかし、山中に逃れた頼朝の居場所を知りながら、景時はあえて見逃したと記されています。

これだけを見ると、敵だった景時が頼朝を助け、その出来事をきっかけに後の主従関係が始まったようにも見えます。

ところが、鎌倉時代初期に慈円が著した『愚管抄』を見ると、少し事情が異なります。

『愚管抄』には、頼朝が挙兵した段階から、梶原景時、土肥実平、北条時政らを率いて東国を従えようとしたという趣旨の記述があります。つまり、頼朝と景時の関係については史料によって、その内容が異なるのです。

石橋山の戦いで梶原景時と源頼朝は敵同士だった

1180年(治承4年)、伊豆国に流されていた源頼朝は平氏打倒を掲げ、挙兵しました。

8月17日には北条時政や土肥実平らとともに伊豆国目代・山木兼隆を襲撃。その後、相模国へと軍勢を進めます。

これに対して頼朝討伐のために兵を集めたのが、相模国の有力武士・大庭景親でした。

小田原市の資料によると、大庭景親の呼びかけに応じた武士には俣野景久、河村義秀、熊谷直実、飯田家義らとともに梶原景時の名前もあります。

大庭勢は3,000余騎。一方の頼朝勢は300騎ほどだったとされ、8月23日に行われた石橋山の戦いで頼朝軍は大敗しました。

頼朝はわずかな従者とともに山中へ逃れます。

『吾妻鏡』では、この時点で景時は大庭景親側におり、頼朝とは敵対する立場にあったことになります。

ところが、『愚管抄』には異なる記述があります。

田中徳定氏の「中世文学を通してみる梶原景時―京の文化と東国武士を視点として―」でも指摘されていますが、『愚管抄』では頼朝の挙兵について、

「梶原平三景時、土肥次郎実平、舅伊豆国住人北条四郎時政」

らとともに東国を従えようとした、という趣旨の記述があります。

つまり、『愚管抄』では景時が頼朝挙兵当初から頼朝側の人物であったかのように描かれているのです。

『吾妻鏡』では「大庭景親側にいた景時が頼朝を救う」。

一方の『愚管抄』では「頼朝の挙兵当初から景時が頼朝側の人物として登場する」。

二つの史料には、このような違いがあります。

そのため、「石橋山の戦いで景時と頼朝は完全な敵同士だった」と断言することは難しく、少なくとも史料によって二人の関係の描かれ方が異なっていることには目を向ける必要があります。

『吾妻鏡』では梶原景時が頼朝を見逃したとされる

では、有名な「景時が頼朝を助けた」という話はどこから生まれたのでしょうか。

その根拠の一つとなっているのが、『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月24日条です。

石橋山の戦いに敗れた頼朝は、土肥実平らとともに山中へ逃れました。

大庭景親らは頼朝を捕らえるため山中を捜索します。

その際、景時は頼朝が隠れている場所を知ったとされます。

ところが、『吾妻鏡』には、

「慥雖知御在所。存有情之慮。」

と記されています。

景時は頼朝の居場所を確かに知っていたものの、「有情の慮(ゆうじょうのりょ)」を抱いたというのです。

景時は大庭景親に対し、この一帯には人の跡が見当たらないという趣旨のことを述べ、景親らを別の峰へ連れていったとされています。

つまり、『吾妻鏡』の記述に従えば、

頼朝が石橋山で敗北する
↓
山中へ逃れる
↓
大庭景親らが頼朝を捜索する
↓
景時が頼朝の居場所を知る
↓
しかし「有情の慮」によって頼朝を見逃す
↓
大庭景親を別方向へ誘導する

という流れになります。

後に頼朝から重用される景時が、まだ敵方にいた時代に頼朝の命を救った、という二人の関係を象徴する逸話となります。

梶原景時はなぜ頼朝を見逃した?

では、なぜ景時は頼朝を見逃したのでしょうか。

結論からいうと、正確な理由はわかっていません。

『吾妻鏡』が記しているのは「有情の慮」という言葉までです。

「有情」は、相手に対する情けや思いやりといった意味です。

そのため『吾妻鏡』では、景時が頼朝に何らかの情けをかけ、その命を救ったという話として描かれていることになります。

しかし、なぜ景時が頼朝に情けをかけたのかまでは書かれていません。

後世には、

「景時は頼朝の将来性を見抜いていた」
「平氏が衰退し、いずれ源氏の時代になると考えた」
「源氏に対して以前から特別な思いがあった」

など、さまざまな理由が語られています。

しかし、景時本人がそのような理由で頼朝を助けたと確認できる史料は残っていません。

また、『愚管抄』の記述に従えば、そもそも景時と頼朝は挙兵以前から何らかの関係を持っていた可能性まで考えることができます。

そうなると、「敵だった景時が頼朝の人物を見込んで、その場で助けることを決断した」という物語そのものについても慎重に考える必要があります。

「洞窟で頼朝と対面した」という話は史実なのか?

石橋山の戦いにおける景時の逸話として、現在よく知られているのが「洞窟(臥木(倒木)の洞)に隠れていた頼朝を景時が発見した」という話です。

これは、『源平盛衰記』で見られる記述です。

それによれば、

景時が洞窟の中へ入り、頼朝と目を合わせる。景時に見つかった頼朝は自害しようとするが、それを景時が止め、さらに大庭景親に「ここには誰もいない」と伝えて助けた。

こうした劇的な場面として紹介されます。

ただし、『吾妻鏡』では、そのような記述はなされていません。

前述しましたが、『吾妻鏡』には景時が頼朝の居場所を知りながら、「有情の慮」によって大庭景親を別方向へ導いたという記載があるのみです。洞窟の中で景時と頼朝が対面したという話はありません。

そのため、洞での両者の邂逅を史実として断定することはできません。

ただし、現在の観光案内などでは、頼朝が潜伏したと伝えられる「しとどの窟」とともに、洞での対面の逸話が紹介されたりしています。

『吾妻鏡』の記述はどこまで信用できる?

ここまで見ると、『吾妻鏡』に書かれているのであれば正しい、と思われるかもしれませんが、実は『吾妻鏡』という史料の性格についても考える必要があります。

『吾妻鏡』は、1180年(治承4年)の源頼政の挙兵から1266年(文永3年)までの鎌倉幕府の出来事を編年体で記録した歴史書です。

鎌倉時代を研究するうえで非常に重要な史料ですが、石橋山の戦いが起きた1180年に、その場で記録された日記ではありません。

成立時期については研究上さまざまな議論がありますが、少なくとも現在残る形の『吾妻鏡』は後世に編纂されたものと考えられています。

そのため、石橋山の戦いについても、

「1180年8月24日に誰かが目撃した出来事を、その日のうちにそのまま記録した」

という史料ではありません。

さらに興味深いのが、先ほど紹介した『愚管抄』との違いです。

『吾妻鏡』では、景時は大庭景親側の人物として登場し、敗走した頼朝を見逃します。

一方の『愚管抄』では、頼朝が挙兵した段階から景時が頼朝側にいたように読める記述があります。

そして後世の『源平盛衰記』になると、景時が頼朝を救う場面はさらに劇的な物語として描かれていきます。

つまり、

『吾妻鏡』
↓
『愚管抄』
↓
軍記物語
↓
後世の伝承

を比較すると、景時と頼朝の関係について同じ描き方がされているわけではありません。

だからといって、『吾妻鏡』の逸話がすべて創作だったと断定することもできません。『吾妻鏡』は鎌倉時代史を考えるうえで欠かすことのできない基本史料です。

重要なのは、

「『吾妻鏡』には景時が頼朝を見逃したと記されている」

ということと、

「実際に1180年8月24日に細部までそのとおりの出来事があった」

ということを分けて考えることです。

史料から確認できる範囲では、『吾妻鏡』が景時による頼朝救出の逸話を伝えているものの、その具体的なやり取りまで史実だったと証明できるわけではない、と考えるのが妥当といえます。

頼朝と景時の関係は単なる「命の恩人」ではなかった?

梶原景時と源頼朝の関係は、

「石橋山で景時が頼朝を助けた」
「その恩返しとして頼朝が景時を重用した」

という単純な物語として語られることがあります。

しかし、史料を追っていくと、それだけでは説明できません。

『吾妻鏡』が描く石橋山の逸話の翌年、景時は頼朝へ出仕しました。

その際には「言語」を巧みに扱う人物として評価されています。

その後は上総広常殺害という重大な命令を任され、源平合戦では戦場へ赴き、鎌倉の頼朝へ情報を伝えました。さらに侍所の所司を務め、最終的には侍所の長官となります。

景時は頼朝に命を救われた恩人として側近になったのではなく、出仕後の約20年間にわたって頼朝の政権運営に関わる役割を担い続けました。

また、景時が頼朝の意向を受けて動く立場だったことは、他の御家人との関係を考えるうえでも重要です。頼朝の命令を実行し、現場の状況を頼朝へ伝える人物は、頼朝にとっては必要な存在だったのでしょう。

一方、他の御家人から見れば、景時は自分たちの行動を鎌倉殿へ報告する人物でもあります。後に義経との対立をめぐって景時が「讒言をした人物」として描かれていく背景にも、こうした景時の立場を考える必要があります。

石橋山の逸話は二人の関係の始まりとして有名ですが、それだけでその後の約20年間を説明するのではなく、景時が頼朝のもとで実際にどのような役割を担ったのかを見ることが重要です。

まとめ

梶原景時が石橋山の戦いで源頼朝を助けたという話は『吾妻鏡』が根拠です。

しかし、景時がなぜ頼朝を見逃したのか、その具体的な理由まではわかっていません。

「頼朝が将来天下を取ると見抜いた」といった話を裏付ける史料はなく、『吾妻鏡』も記しているのは「有情の慮」までです。

本人に聞ければ一番いいのですが、もちろんそんなことができるはずもありません。史料には書かれていない、当時を生きる人たちだからこそわかる何かが、そうさせたのかもしれません。