源頼朝の家系図まとめ!父母・兄弟・妻・子供から子孫まで詳しく解説
源頼朝は、清和源氏の流れをくむ源義朝の三男として生まれました。
兄弟には源義平や源範頼、源義経らがおり、頼朝自身は北条政子と結婚。二人の間には、のちに鎌倉幕府第2代将軍となる源頼家や、第3代将軍となる源実朝らが生まれています。
しかし、頼朝から続く家系は長くは続きませんでした。
結論から言うと、実朝の死によって源氏将軍は3代で終わり、頼家の子供たちも相次いで亡くなります。
この記事では源頼朝の家系図をもとに、その祖先から父母、兄弟、妻、子供、さらには頼朝の子孫がどうなったのかまで見て
源頼朝の家系図をわかりやすくご紹介
まずは、源頼朝の家系を見てみましょう。
頼朝の祖先から父・源義朝、兄弟、さらに北条政子との間に生まれた子供たちまでを簡略化すると、次のようになります。
│ ├── 源頼家
│ ├── 三幡
│ └── 源実朝
※家系関係をわかりやすくするため、一部を簡略化しています。
この家系図を見ると、源頼朝が源氏のなかでも長く武門として活動してきた一族の出身であることがわかります。
また、源義平や源朝長は頼朝の兄、源希義・源範頼・源義経らは弟にあたります。ただし、義朝の子供たちは全員が同じ母から生まれたわけではありません。
頼朝は北条政子との間に大姫・頼家・三幡・実朝の2男2女をもうけました。このうち頼家と実朝が、頼朝の死後に第2代・第3代の鎌倉幕府将軍となっています。
なお、上の家系図では一般的な系図に従い、源経基を清和天皇の皇子・貞純親王の子として記載しています。
しかし、源経基の出自については異説もあります。
多くの系図では「清和天皇―貞純親王―源経基」とされていますが、『石清水文書』に残る「源頼信願文」などを根拠として、経基を陽成天皇の皇子・元平親王の子とする説もあります。そのため、現在一般的に「清和源氏」と呼ばれている系譜についても、その最初期まで完全に確定しているわけではありません。
源頼朝は清和源氏の一族
源頼朝は一般に「清和源氏」と呼ばれる一族の出身です。
伝統的な系譜では、清和天皇から頼朝までは次のようにつながります。
清和天皇
↓
貞純親王
↓
源経基
↓
源満仲
↓
源頼信
↓
源頼義
↓
源義家
↓
源義親
↓
源為義
↓
源義朝
↓
源頼朝
このうち、源頼信から続く系統は「河内源氏」と呼ばれています。頼信の子・源頼義は前九年の役、さらにその子・源義家は前九年の役や後三年の役で活躍しました。
義家の子孫に源為義、その子に源義朝がおり、義朝の三男として生まれたのが源頼朝です。
つまり頼朝は、1180年の挙兵によって突然歴史の表舞台に現れた一人の武士というわけではありません。
何世代にもわたって武士として活動してきた河内源氏の系譜を受け継ぐ人物だったのです。
源頼朝の父は源義朝
前述したように、源頼朝の父は源義朝です。義朝は源為義の子として生まれ、平安時代末期に東国へ勢力を伸ばしました。
1159年に起きた平治の乱では、義朝は藤原信頼らとともに挙兵しました。この戦いでは一時、後白河上皇や二条天皇を確保しますが、京都へ戻った平清盛との戦いに敗北。東国へ逃れる途中、尾張国で殺害されました。
このとき頼朝も父とともに東国を目指しましたが、途中ではぐれたのちに捕らえられます。本来なら処刑されてもおかしくない立場でしたが、頼朝は命を助けられ、伊豆へ流されることになりました。
父・義朝の敗死と伊豆への流罪は、その後の頼朝の人生を大きく変える出来事となったのです。
源頼朝の母は由良御前
源頼朝の母は、「由良御前」とされています。由良御前は、熱田大宮司・藤原季範の娘で、源義朝の正室となりました。
藤原季範は尾張国の熱田神宮と深い関係を持つ熱田大宮司家の人物です。そのため頼朝は、父方から河内源氏の血を引くだけでなく、母方では熱田大宮司家ともつながっていました。
なお、源義朝には複数の女性との間に子供がいたため、頼朝の兄弟全員が由良御前から生まれたわけではありません。
たとえば、源義経の母は常盤御前、源範頼の母は遠江国池田宿の女性とされています。
一方で、頼朝の弟である源希義は、頼朝と同じ由良御前を母とする同母弟とされています。
このように源義朝の子供たちは、父を同じくしながら母の異なる兄弟が多くいました。
源頼朝には多くの兄弟がいた
源義朝には多くの子供がおり、源頼朝にも複数の兄弟がいました。代表的な人物を整理すると次のようになります。
| 人物 | 頼朝との関係 | 母 | その後 |
|---|---|---|---|
| 源義平 | 異母兄 | 三浦義明の娘とする説など | 平治の乱後に捕らえられ処刑 |
| 源朝長 | 異母兄 | 波多野義通の妹とされる | 平治の乱後の逃亡中に死亡 |
| 源希義 | 同母弟 | 由良御前 | 土佐で挙兵を図るも敗死 |
| 源範頼 | 異母弟 | 遠江国池田宿の女性 | 平氏追討などで活躍 |
| 源義経 | 異母弟 | 常盤御前 | 平氏追討で活躍したのち頼朝と対立 |
このうち源義平と源朝長は頼朝の兄にあたります。
平治の乱で父・義朝が敗れると兄弟の運命も大きく変わり、義平は捕らえられて処刑され、朝長も東国へ向かう途中で命を落としました。
頼朝の弟たちも、それぞれ異なる人生を歩んでいます。希義は土佐、範頼は遠江、義経は奥州など、それぞれ離れた場所で成長しました。
源頼朝の妻は北条政子
源頼朝の妻としてもっともよく知られているのが北条政子です。政子は伊豆国の武士・北条時政の娘として生まれました。
平治の乱後、頼朝は伊豆へ流されていましたが、その流人生活のなかで政子と結ばれます。そのため、1180年に頼朝が挙兵すると、北条時政をはじめとする北条氏も頼朝を支えることになりました。
頼朝と政子の間には、大姫・頼家・三幡・実朝の2男2女が生まれています。特に頼家と実朝は、頼朝の死後に鎌倉幕府の将軍となったため、頼朝の家系を考えるうえで重要な人物です。
一方で、頼朝には政子以外の女性との関係も伝えられており、『吾妻鏡』には亀の前との関係なども記されています。
源頼朝には何人の子供がいた?
源頼朝と北条政子の間には、2男2女の4人の子供が確認されています。
長女が大姫、長男が源頼家、次女が三幡、次男が源実朝です。頼朝の死後、頼家と実朝が相次いで鎌倉幕府の将軍となりました。
一方、娘の大姫と三幡はいずれも若くして亡くなっています。
大姫
大姫は頼朝と政子の長女です。
頼朝と対立した木曽義仲の子・源義高と婚約していましたが、頼朝と義仲の対立によって義高は鎌倉から逃亡し、その途中で殺害されました。
その後、大姫には後鳥羽天皇への入内計画も進められましたが、実現することなく1197年に亡くなっています。
源頼家
源頼家は1182年に生まれた頼朝と政子の長男です。
頼朝が1199年に亡くなると、17歳で父の家督を継承しました。
その後、1202年に征夷大将軍となり、鎌倉幕府第2代将軍となります。
しかし翌1203年には将軍の座を追われ、伊豆の修禅寺へ送られました。1204年に同地で殺害されています。
三幡
三幡は頼朝と政子の次女です。「乙姫」と記されることもあります。
姉の大姫が亡くなった後、頼朝は三幡についても朝廷との関係を深める構想を持っていたと考えられています。
しかし、父・頼朝が亡くなった1199年、三幡も病に倒れました。
『吾妻鏡』には治療や祈祷が行なわれたことが記されていますが、同年6月30日に亡くなっています。
源実朝
源実朝は1192年に生まれた頼朝と政子の次男です。幼名を千幡といいます。兄・頼家が失脚すると、その跡を継いで鎌倉幕府第3代将軍となりました。和歌に優れ、『金槐和歌集』を残したことでも知られています。
しかし1219年、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式を終えた直後、兄・頼家の子である公暁に襲われて亡くなりました。
実朝には実子がいなかったため、その死によって頼朝の子が将軍となる時代は終わることになります。
源頼朝の跡を継いだのは長男・源頼家
繰り返しになりますが、1199年1月13日に源頼朝が亡くなると、その家督を継いだのは長男の源頼家でした。このとき頼家は17歳でした。
ただし、頼朝が亡くなった直後に征夷大将軍となったわけではありません。
1199年 頼朝死去・頼家が家督を継承
↓
1202年 頼家が征夷大将軍に就任
↓
1203年 頼家が失脚
↓
1203年 弟・実朝が第3代将軍に就任
↓
1204年 頼家死去
という順番です。
頼家の時代には、北条時政や大江広元ら有力者の影響力も強まり、頼朝一人を中心としていた時代とは幕府内の政治状況も変わっていきました。
1203年に頼家が失脚すると、弟の実朝が将軍となります。こうして鎌倉幕府の将軍職は、頼朝から頼家、そして実朝へと引き継がれていきました。
源頼朝の直系子孫はどうなった?
頼朝の子供のうち、さらに子供を残したのが長男・頼家です。簡略化すると、頼朝の男系は次のようにつながっていきました。
│ ├── 公暁
│ └── そのほかの子供
※家系関係をわかりやすくするため、一部を簡略化しています。
頼家には複数の子供がいました。その一人が、のちに叔父・実朝を殺害する公暁です。
公暁は頼家の子として1200年に生まれ、父の死後は鶴岡八幡宮に入りました。1219年1月27日、鶴岡八幡宮で実朝を殺害しますが、公暁自身もその日のうちに三浦義村が差し向けた討手によって殺されています。
頼家のほかの男子も鎌倉幕府内部の政争のなかで相次いで命を落としました。
一方、実朝には実子がいませんでした。そのため、頼朝から続いた男系の直系子孫は、鎌倉時代の早い段階で途絶えることになります。
ただし、「1219年の実朝の死によって頼朝の血統がすべて途絶えた」というわけではありません。実朝が亡くなった時点では頼家の子供が残っていたためです。
「源氏将軍が途絶えた時期」と「頼朝の直系子孫が途絶えた時期」は分けて考える必要があります。
源頼朝の子孫は現在もいる?
「源頼朝の子孫は現在もいるのか」と疑問に思う方もいるかもしれません。結論からいうと、現在までつながる頼朝の直系子孫を確実に示すことはできません。
頼朝の長男・頼家には子供がいましたが、男子は鎌倉時代初期の幕府内の争いのなかで相次いで亡くなりました。
一方、後世には「源頼朝の子孫」と称する系譜も伝えられています。その代表例が、豊後大友氏の祖となった大友能直です。大友氏側の後世の系譜には、能直を頼朝の庶子とするものがあります。
しかし、現在の研究ではこれをそのまま史実とはみなされていません。『日本大百科全書』では、能直について相模国古庄郷司・近藤能成の子とされています。
源頼朝と木曽義仲はどんな関係?
源頼朝と木曽義仲は、どちらも河内源氏につながる一族です。
しかし二人は兄弟ではありません。
系図を簡略化すると、次のようになります。
※家系関係をわかりやすくするため、一部を簡略化しています。
頼朝の父・義朝と、義仲の父・義賢が兄弟です。
そのため、頼朝と義仲は従兄弟(いとこ)の関係になります。
なお、1180年には頼朝と義仲がそれぞれ平氏に対して挙兵しますが、同じ源氏だからといって一つの勢力として行動していたわけではありません。両者はそれぞれ独自の武士団を率いており、やがて対立することになります。
最終的には1184年に、頼朝が派遣した源範頼・源義経らの軍によって義仲は敗れ、近江国粟津で戦死しました。このように平安時代末期の「源氏」は一枚岩ではなく、同じ一族のなかでも複数の勢力に分かれていました。
さいごに
頼朝は、清和源氏・河内源氏の流れをくむ源義朝の三男として生まれています。父方の系譜をたどると、源為義や源義親、源義家、源頼義らへとつながります。その点、誉れ高き武門の出であると言えます。
また、兄弟姉妹もたくさんいます。ただし、必ずしも一族が一致団結していたわけではありませんでした。兄弟間はもちろん、同族でも血なまぐさい対立がありました。