源頼朝の死因は?落馬説や病死、暗殺説など最期の謎を史料から探る
源頼朝は建久10年(1199)1月13日、数え年53歳で亡くなりました。
その死因としてよく知られているのが「落馬」です。『吾妻鏡』には、相模川に架けられた橋の供養に出席した帰り、頼朝が落馬し、それからほどなくして亡くなったと記されています。
しかし、頼朝の死去前後の記事は『吾妻鏡』から欠けており、落馬の記事が記されたのも頼朝の死から約13年後のことでした。
一方で、『愚管抄』や『明月記』などは頼朝の病気を伝え、『猪隈関白記』には「飲水重病」という記述も残されています。
頼朝は本当に落馬が原因で亡くなったのでしょうか。
この記事では、頼朝の最期について残された史料を比較しながら、その死因について考えていきます。
源頼朝はいつ、何歳で亡くなった?
源頼朝が亡くなったのは、建久10年(1199)1月13日です。
久安3年(1147)生まれなので、数え年では53歳。現在一般的に使われる満年齢では51歳です。頼朝が征夷大将軍に任じられたのは建久3年(1192)7月なので、それから約6年半後のことになります。
頼朝は平治の乱で父・源義朝を失い、伊豆へ流された後、治承4年(1180)に挙兵。東国の武士たちをまとめて鎌倉を本拠とし、平氏や奥州藤原氏を滅ぼしました。
そして朝廷との交渉を重ねながら武家政権の基礎を築き、1192年には征夷大将軍となります。
その頼朝が、50代前半という年齢で突然亡くなったのです。
頼朝が1月13日に亡くなったことについては、京都側の史料からも確認できます。
近衛家実の『猪隈関白記』建久10年1月20日条には、
「前右大将頼朝去十三日早世云々」
とあります。
頼朝が去る13日に亡くなったという意味です。
藤原定家の『明月記』も1月20日条で、頼朝が11日に出家し、13日に亡くなったとの知らせを記しています。
このように、頼朝が1199年1月13日に亡くなったこと自体については複数の史料から確認できます。
では、頼朝はどのように亡くなったのでしょうか。
源頼朝の死因は現在もはっきりしていない
源頼朝の死因について、
「馬から落ちて亡くなった」
と聞いたことがある方は多いでしょう。
たしかに、『吾妻鏡』には、頼朝が相模川の橋供養から帰る途中で落馬し、その後ほどなく亡くなったという記述があります。
しかし、ここで目を向けるべきなのは、
「頼朝が落馬したこと」と「落馬による負傷が直接の死因だったこと」は同じではない
という点です。
『吾妻鏡』は、頼朝が落馬した後に亡くなったことは伝えていますが、落馬によってどのような怪我をしたのか、またはその怪我が原因で死亡したのかまでを説明していません。
また、頼朝の死去に近い時期の史料を見てみると、それとは違った姿が見えてきます。
『愚管抄』は頼朝について「所労不快」と伝え、『明月記』にも病気を示す記録があります。
さらに、『猪隈関白記』には「飲水重病」という具体的な記述まで残されています。
つまり、史料から確認できるのは、
頼朝が落馬したという記録があること。そして、頼朝が死の直前に病気になっていたこと。
ここまでです。
落馬による怪我で死亡したのか、病気によって落馬したのか、あるいは落馬と病気がどのように関係していたのか。
現在残されている史料だけでは、そこまで断定することはできません。
なぜ源頼朝の死因は分からない?『吾妻鏡』には死去前後の記事がない
頼朝の死因が分からなくなっている大きな理由の一つが、『吾妻鏡』の記事の欠落です。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府によって後世に編纂された歴史書で、治承4年(1180)の頼朝挙兵から文永3年(1266)までの出来事を中心に記しています。
頼朝の行動を調べるうえでは欠かすことのできない史料ですが、すべての期間の記事が残っているわけではありません。いくつか欠落している情報がありますが、頼朝の晩年についても欠落があります。
たとえば、建久6年(1195)12月22日の記事を最後に記録が途絶え、その後、頼家の時代に入るまで約3年間の記事が残されていません。そのなかに、建久10年(1199)1月13日の頼朝死去も含まれています。
つまり、私たちが最も知りたい、
頼朝が体調を崩す
↓
病床につく
↓
出家する
↓
死去する
という過程を、『吾妻鏡』の記事から追うことができないのです。
これが理由で、「頼朝の暗殺を隠すために記事が削除されたのではないか」といった説も語られたりします。
『吾妻鏡』には頼朝が「落馬した」と記されている
それでは、有名な「頼朝落馬説」はどこから出てきたのでしょうか。
繰り返しになりますが、その根拠となっているのが、『吾妻鏡』建暦2年(1212)2月28日条です。頼朝が亡くなってから約13年後の記録になります。
この日、相模川に架けられていた橋が傷んだため、修理するかどうかが幕府内で議論されました。
ところが、この橋には不吉な記憶がありました。
建久9年(1198)、稲毛重成が新たに橋を架け、その供養に頼朝が出席した際、帰り道で落馬し、その後亡くなったというのです。
『吾妻鏡』には、
「及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。」
とあります。
書き下すと、
還路に及びて御落馬有り。幾程を経ず薨じ給ひ畢んぬ。
となります。
現代語訳にすると、
帰路において落馬され、それからそれほど時を経ずに亡くなられた。
という意味です。
これが、「源頼朝は落馬によって死んだ」という説の大きな根拠となっています。
しかし、原文をよく見ると、「落馬による怪我が原因で死亡した」とは書かれていません。
書かれているのは、
「落馬した」
↓
「それほど経たず亡くなった」
という時間的な流れです。
なぜ落馬したのか。
どのような怪我を負ったのか。
その怪我が直接の死因だったのか。
こうしたことについて『吾妻鏡』は説明していません。
さらに、この記録自体が頼朝の死去当時ではなく、約13年後の記事であることも考慮する必要があります。
「頼朝が落馬した」という重要な史料ではありますが、これだけで「頼朝の死因は落馬」と断定することはできないのです。
頼朝はなぜ相模川へ行っていた?
では、頼朝はなぜ相模川へ向かったのでしょうか。
『吾妻鏡』建暦2年2月28日条によれば、この橋を造ったのは稲毛重成でした。
重成は頼朝に仕えた御家人で、妻を亡くした後、その供養のために相模川へ橋を架けたとされています。
建久9年(1198)、橋が完成すると供養が行なわれ、頼朝も結縁のために出席しました。
『吾妻鏡』には、
「去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結縁之。故將軍家渡御。」
と記されています。
橋供養が行なわれた日は、建久9年12月27日と考えられています。鎌倉市中央図書館が『大日本史料』や『吾妻鏡』などを調査した結果でも、橋供養の日は12月27日とされています。そして供養からの帰路、頼朝が落馬したと『吾妻鏡』は伝えます。
翌年1月11日には出家し、1月13日に死去。橋供養から死去までは半月あまりでした。
この時間差も、頼朝の死因を考えるうえで重要になります。
源頼朝は落馬が原因で亡くなったのか?
もっとも分かりやすい説明は、落馬によって大怪我を負い、それが原因で頼朝が亡くなったというものです。馬から落ちれば、頭部や内臓などに重大な損傷を負う可能性があります。頼朝が落馬した後、それほど時間を置かず亡くなったという『吾妻鏡』の記事とも矛盾しません。
しかし、この説には決定的な証拠がありません。
繰り返しになりますが、『吾妻鏡』には、頼朝が落馬によって頭を打ったとも、骨折したとも、その傷が悪化したとも書かれていないからです。
また、頼朝が亡くなった当時に近い京都側の史料には「落馬」ではなく、「病」を示す記録が残されています。
すると、逆の可能性も考えられます。
頼朝が健康な状態から偶然落馬して重傷を負ったのではなく、何らかの病気によって馬上で異常を起こし、その結果として落馬したのではないかという考え方です。
ただし、これも史料から直接確認できるわけではありません。落馬と病気のどちらが原因で、どちらが結果だったのか。ここが頼朝の死因を考えるうえで最大の問題になります。
病気によって落馬した可能性もある
頼朝が病気だったことを示す史料はいくつか残されています。
慈円が記した『愚管抄』では、頼朝の最期について、
「建久十年正月に、関東将軍、所労不快とかや」
と記されています。
「所労」は病気、「不快」は病状が思わしくないことを意味します。
その後、頼朝は1月11日に出家し、13日に亡くなったとされています。
藤原定家の『明月記』にも、頼朝が病気によって出家し、その後亡くなったという情報が記されています。
そして、さらに具体的な病状を伝えているのが近衛家実の『猪隈関白記』です。
つまり、頼朝の死去に比較的近い時期の京都側史料では、「落馬事故による死亡」というより、頼朝が病気になり、その病状が悪化して亡くなったという情報が伝えられていたことになります。
このため、
病気を発症する
↓
馬上で身体に異常が起きる
↓
落馬する
↓
病状が悪化する
↓
死去する
という可能性も考えられます。
ただし、この流れそのものが史料に書かれているわけではありません。落馬と病気という二つの情報を組み合わせた一つの推測として考える必要があります。
「飲水の病」とは糖尿病だった?
頼朝の病気を考えるうえで特に注目されているのが、『猪隈関白記』です。
近衛家実は建久10年(1199)1月18日条に、
「前右大将頼朝卿依飲水重病、去十一日出家之由世以風聞」
と記しています。
だいたいの意味としては、
前右大将・源頼朝卿が「飲水」によって重病となり、去る11日に出家したとの噂が世間に広まっている。
となります。
さらに、1月20日条には、
「前右大将頼朝去十三日早世云々」
とあり、頼朝が13日に亡くなったことが記されています。
この「飲水」が何を意味するのかについては、古くから注目されていますが、水を大量に欲する症状から、現代の糖尿病に相当するのではないかと解釈されています。
実際、糖尿病では高血糖によって強い口渇や多飲が現れることがあります。
しかしながら、これもまた
「飲水」=糖尿病だった
と断定することはできません。
『猪隈関白記』には現代医学の診断基準に相当する情報が記されているわけではありませんし、多飲を引き起こす病気は糖尿病だけではありません。
そのため、『猪隈関白記』から確実に言えるのは、頼朝の死の直前、京都では「飲水」に関係する重病を患っているという情報が流れていたというところまででしょう。
脳卒中や脳血管疾患が原因だったという説
頼朝の死については、脳卒中などの脳血管疾患を原因とする説も唱えられてきました。
この説では、
頼朝が馬に乗っている最中に脳卒中などを発症し、そのため身体を制御できなくなって落馬したのではないか
と考えます。
医学史家として知られる富士川游も、頼朝の死について医学的な考察を行なっています。
富士川には「源頼朝の死」と題する論考があり、国立国会図書館の調査では『歴史公論』第2巻第7号(1933)に掲載されたことが確認されています。
脳血管疾患を想定すれば、
病気の発症
↓
落馬
↓
その後死亡
という『吾妻鏡』と病死系史料の記述を一つの流れとして説明することはできます。
しかし、これはあくまで後世の医学的推測です。800年以上前の人物を現代医学によって診断することには限界があります。そのため脳卒中説についても、「史料から確認された死因」ではなく、残された症状や状況から考えられた仮説として扱うべきと言えます。
源頼朝は暗殺されたという説は本当?
頼朝の死をめぐっては、暗殺説や毒殺説も語られています。
頼朝は鎌倉幕府の最高権力者でした。
また、頼朝の死後には、梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱など、有力御家人が次々と粛清される政争が起こります。頼朝の子である頼家は後に殺害され、実朝も鶴岡八幡宮で暗殺されました。
こうした鎌倉幕府初期の激しい権力争いを見ると、
「頼朝も何者かに殺されたのではないか」
と考えたくなってもおかしくありません。
さらに、『吾妻鏡』から頼朝死去前後の記事が欠落していることも、暗殺説を連想させる一因となっています。
しかし、『猪隈関白記』や『明月記』など、頼朝の死に近い時期の記録は病気を伝えています。いずれの史料にも「殺害された」とは記されていません。
そのため、暗殺・毒殺の可能性を完全に否定することはできないものの、現在残されている史料から、それを積極的に支持することはできないと言えます。
北条政子が源頼朝の死に関係したという説は?
頼朝の死について調べると、「北条政子による殺害」という話を目にすることがあります。
しかし、この説についても史料上の裏付けは確認できません。
頼朝の妻である北条政子は、頼朝の死後も鎌倉幕府に大きな影響力を持ちました。
また、父・北条時政や弟・北条義時を中心とする北条氏が、その後幕府内で勢力を拡大していったことも事実です。
その結果から逆算すると、
頼朝の死によって北条氏が利益を得た
↓
北条氏が頼朝を殺したのではないか
という物語を作ることはできます。
しかし、「結果として勢力を拡大したこと」と「頼朝を殺害したこと」は別の問題です。『猪隈関白記』『明月記』『愚管抄』などの記録にも、政子が頼朝の死に関与したことを示す記述は見当たりません。
少なくとも現在確認できる史料から、
「北条政子が頼朝を殺害した」
と考える根拠はありません。
義経や安徳天皇の怨霊を見て落馬したという伝説もある
頼朝の死は、後世になるとさらに物語化されていきました。
その代表的な史料が『保暦間記』です。
『保暦間記』は頼朝の死から100年以上後に成立した歴史書で、頼朝の最期について不思議な話を伝えています。相模川の橋供養から帰る途中、頼朝の前に、かつて滅ぼされた源義広・義経・行家らの怨霊が現れたというのです。
また、稲村ヶ崎付近では、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇の亡霊まで現れたとされています。
そして頼朝はその後病に倒れ、亡くなったという筋書きです。
もちろん、「頼朝が本当に義経や安徳天皇の亡霊を見た」ということを歴史的事実として考えることはできません。
重要なのは、なぜ後世の人々が頼朝の死を怨霊と結びつけたのかという点です。
頼朝は権力を確立する過程で、義経や行家を追討し、平氏を滅ぼしました。
さらに、奥州藤原氏など多くの勢力を排除しています。
そうした頼朝の生涯を知る後世の人々にとって、
「滅ぼされた者たちの怨霊によって頼朝も命を落とした」
という物語は、因果応報として理解しやすいものだったのでしょう。
『保暦間記』の記述は頼朝の死因を直接伝える史料というより、頼朝の最期が後世にどのように語られるようになったのかを知る史料として見るほうがよいと言えます。
源頼朝の死因に関する説を整理
ここまでで見てきたように、頼朝の死については史料によって記述が異なります。それぞれの説と史料上の位置づけを整理すると、次のようになります。
| 説 | 主な根拠 | 史料上の評価 |
|---|---|---|
| 落馬・落馬後死亡 | 『吾妻鏡』 | 落馬後ほどなく死去したとの記述がある。ただし落馬による負傷が直接の死因だったとは書かれていない |
| 病死 | 『愚管抄』『明月記』など | 頼朝の死去に近い時期の史料が病気を伝えている |
| 「飲水」の重病 | 『猪隈関白記』 | 死去直前に「飲水重病」と伝えられていたことが確認できる |
| 糖尿病 | 「飲水重病」の医学的解釈 | 可能性は指摘されるが、現代医学で糖尿病と確定することはできない |
| 脳卒中・脳血管疾患 | 後世の医学的推測 | 病気による落馬を説明できるが、中世史料に直接の記述はない |
| 暗殺・毒殺 | 後世の諸説 | 直接裏付ける同時代史料は確認できない |
| 怨霊説 | 『保暦間記』など | 後世に形成された説話的な説明として見る必要がある |
このなかで特に重要なのは、すべての説が同じ史料的価値を持っているわけではないことです。
頼朝の死に近い時期の史料では病気が伝えられ、後に成立した『吾妻鏡』には落馬が記され、さらに時代が下ると怨霊などを登場させる物語が形成されていきました。
その違いを意識する必要があります。
源頼朝の死後、鎌倉幕府はどうなった?
頼朝が亡くなると、嫡男の源頼家がその地位を継ぎました。
しかし、頼朝という強力な指導者を失った鎌倉幕府では、有力御家人たちの力関係が大きな意味を持つようになります。
正治元年(1199)4月には、頼家が訴訟を直接裁決することを停止し、北条時政・北条義時・梶原景時・比企能員・和田義盛・三浦義澄・大江広元ら13人の有力御家人が訴訟を取り次ぐ体制が構築されました。
いわゆる「13人の合議制」と呼ばれるものです。ただし、13人が常に会議を開いて幕府を共同統治する制度が正式に成立した、というわけではなさそうです。
さらに、同年末には梶原景時が66人の御家人から弾劾され、翌1200年に一族とともに滅亡しました。
その後も幕府内の権力争いは続きます。
建仁3年(1203)には比企能員の変が起こり、比企氏が滅亡。頼家も将軍の座を追われ、翌年には伊豆の修禅寺で殺害されました。
そして頼朝の次男・実朝が3代将軍となります。頼朝の死は、一人の武士の死というだけではありません。頼朝個人の権威によってまとめられていた御家人たちが、その後どのように幕府の主導権をめぐって争っていくのか。
鎌倉幕府初期の政治を大きく変える転換点でもあったのです。
まとめ
源頼朝の死の原因については、史料によって内容が異なります。
しかし、最も有名なのが落馬説です。『吾妻鏡』には、頼朝が相模川の橋供養から帰る途中に落馬し、それからほどなく亡くなったと記されています。
とはいえ、幼少の頃から馬に慣れ親しんできた武士が、いきなり落馬し、しかもそれが原因で亡くなるということには、疑問が残ります。
京に伝えられていた通り、頼朝はすでに病に冒されていた。その病をおして参加した行事にて症状が悪化し、落馬してしまった。そしてそれからほどなくして亡くなった。というのが自然な気がします。