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鷲尾義久とは?源義経の最期まで付き従った忠実な郎党の一生

鷲尾義久は平安時代末期の武士です。源義経の郎党のひとりとして知られています。

この記事では、義久がいつ・どこで義経と出会ったのか、最期はどうだったのか、ご紹介していきます。




源義経との出会い

1184年、源氏方と平氏方の間で一ノ谷の戦いがおこなわれます。義久と義経の出会いは、この合戦より少し前に遡ります。

義経は一ノ谷の戦いにおいて、西方から平氏方の陣に攻撃を加える搦め手軍を任されます。この搦め手軍の進軍はとても大変でした。なぜなら、搦め手から攻めるためには山の中を進んでいかなければならなかったからです。

義経は山に入り、平氏方の陣の後方に出ようとします。ですが、山が深いため道に迷ってしまいました。道に迷った義経は、武蔵坊弁慶が連れてきた近くの猟師から鵯越(ひよどりごえ)までの道のりを聞きます。そして、案内を申し付けました。

しかし、この猟師は老年であることを理由に断り、代わりに息子である熊王に道案内させることを申し出ます。その熊王こそが義久だったのでした。義経を道案内することに決まった熊王は、すぐに元服。義経から一字をもらい鷲尾三郎義久と名乗ります。

義経との劇的な出会いを果たした義久は、鵯越まで導いたあとも郎党として仕えることになりました。




義久の最期

その後も義久は義経と行動をともにしました。平氏との戦いはもちろん、源頼朝と対立したあとの奥州行きの際も義経の側にいたと考えられています。

義経が奥州に着いたあと。1189年に奥州藤原氏の当主・藤原泰衡が頼朝の圧力に負け、義経を攻めてきたときも一緒にいました。

この義経方と泰衡方との戦いを「衣川の戦い(衣川合戦)」と呼びます。このとき、義久はほかの郎党とともに奮戦。5人の敵を倒したあと討ち死にしたといわれています。

義久は最期まで義経の忠実な郎党だったのでした。

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