根井行親とは?息子とともに「義仲四天王」に数えられた武士の一生
根井行親は平安時代末期の武士です。
信濃国佐久地方に勢力を持ち、現在の佐久市根々井の正法寺あたりに居を構えていたといわれています。
『保元物語』によると行親は、1156年に起きた「保元の乱」に参陣。
信濃武士を率いて源義朝勢として戦いましたが、戦の最中、流れ矢に当たり、戦線を離脱しました。
源義仲とともに挙兵
その後、故郷に戻っていた行親は、1180年に源義仲が挙兵すると、息子である楯親忠らを率いて参陣しました。
以降、義仲に従い、平氏方との合戦で各地を転戦。その活躍ぶりから、「義仲四天王」のひとりに数えられました。
1184年、源頼朝が義仲を追討するため、源義経らを京に派遣します。それに対して義仲は、行親とその子・親忠らを宇治川に向かわせ、義経軍の進攻を食い止めようとします。
奮戦した行親。ですが、あまりの戦力差に宇治川の突破を許し、ついに本人も討ち取られてしまいました。首は義仲や今井兼平らと一緒に七条河原の獄門で梟首(きょうしゅ)されたといわれています。
なお、息子である親忠もこの戦いで討死したとされています。