静御前とは?源義経の妾として生きた白拍子の一生
静御前は平安時代末期の白拍子です。
京で有名だった白拍子・磯禅師(いそのぜんじ)の娘として伝わります。
源義経の妾として生き、主を恋い慕う気持ちは今でも多くの人たちの心を打ちます。
今回は、そんな静御前の一生をご紹介します。
雨を降らせた白拍子
日照りが続いたある年。京では雨乞いが行なわれました。場所は神泉苑。そこに100人の白拍子が集められ、雨乞いのための舞が踊られました。
しかし、100人の白拍子が踊っても雨は降りませんでした。ところが、静御前が舞を踊ると、たちまち雨が降り始めたといいます。
この功績により、静御前はときの天皇であった後鳥羽天皇より舞衣を賜ったそうです。
源義経との出会い
義経と静御前は、義経が京にいた頃に出会ったと考えられています。
当時、義経には壇ノ浦で平氏を滅亡させた功績がありましたが、無断で官位を賜ったことなどにより、兄である源頼朝と微妙な関係となっていました。
そんなある日、頼朝から刺客・土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)らが送られてきます。六条堀川の宿にいた義経は昌俊らを撃退。一説ではこのとき、静御前の機転があり、義経は難を逃れたといわれています。
これをきっかけに義経と静御前は相思相愛の仲になったそうです。
源義経とともに京を離れ…
義経の妾となった静御前ですが、頼朝から命を狙われる義経との生活は決して安穏たるものではありませんでした。
刺客が送られてきてからしばらくして、義経は京を離れ大物浦(だいもつのうら)から船で西国へ下ろうとします。
静御前もこれに同行します。しかし、義経一行が乗った船は途中、嵐に遭い、再び港に戻ってしまいます。
このとき、すでに後白河法皇が頼朝に「義経討伐」の院宣を出していたため、京に戻ることはできません。義経は仕方なく、吉野山へ向かいます。
一説ではこの逃避行のなか義経の周りには数十人の妾がいましたが、義経は静御前一人を残して、あとは親元へ帰したといわれています。
義経は吉野山から大峰山を越えようとしますが、大峰山は女性禁制の山。義経と静御前はここで別れることになりました。
捕縛され鎌倉に送られる
静御前は義経秘蔵の手鏡と初音の鼓(つづみ)を持って山を下りようとします。
このとき、二人は山彦が響くほどお互いの名前を呼びながら離れていったといわれています。ちなみに、二人の別れは『義経千本桜』という歌舞伎の題材にもなり、今も大きな人気を誇っています。
義経は静御前が安全に山を下りられるように供をつけます。しかし、山を下りる途中で、供の者どもが静御前から金品などを奪って逃げてしまいます。
さらに、何とか蔵王堂に着いた静御前は、義経一行を探していた吉野衆徒に捕まります。ここで吉野衆徒から舞を所望された静御前は、見事な舞を踊ったといわれています。
その後、京の六波羅へ連行されます。そこで北条時政の取り調べを受け、翌1186年に母である磯禅師とともに鎌倉へ送られました。
鶴岡八幡宮で源義経を慕う歌と舞を披露
鎌倉へ送られた静御前は、義経の所在を尋問されます。義経を慕う静御前は、義経がどこにいるのか一切話さず、尋問を耐え抜きます。
しかし、北条政子の「法楽(ほうらく)のための舞を踊って欲しい」という願いは断ることができませんでした。
1186年4月、静御前は頼朝と政子をはじめとする東国武士たちが出揃うなか、鶴岡八幡宮で歌と舞を披露します。
静御前はこのとき、義経を想い慕う歌を詠んだといわれています。
よし野山 みねの白雪ふみ分けて いりにし人のあとぞ恋しき
しづやしづ 賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
この歌に見物していた人々は胸を打たれます。しかし、頼朝だけは激怒します。「法楽のためなのに、謀反人のことを想う歌にするとは何事だ」と。
これに対して政子がなだめたことで頼朝は落ち着き、静御前に褒美を与えました。
静御前のその後…
鶴岡八幡宮で歌と舞を披露したとき、静御前は義経の子どもを身籠っていました。そして、その3ヶ月後、静御前は男子を出産します。
頼朝は男子なら命を奪うつもりでした。出産を終えた静御前のもとに頼朝の使者が訪れます。
静御前は我が子を渡すことを拒否しましたが、ほぼ強引に子どもを奪われます。その子どもは由比ヶ浜に沈められたといわれています。
すっかり傷心してしまった静御前はその後、母である磯禅師とともに京へ戻り、しばらくして亡くなったといわれています。
一説には嵯峨で庵を結んだともいわれていますが、たしかなことはわかっていません。