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伊勢大輔とはどんな人物だった?その生涯から紫式部とのエピソードまでご紹介

伊勢大輔(いせのたいふ/おおすけ)は平安時代中期の女流歌人です。

一条天皇の中宮・彰子に仕え、そのもとで文芸サロンの発展を支えた人物として知られています。

『源氏物語』の著者・紫式部とも親交があり、彼女から八重桜の受け取りを譲られた話は現代に伝わるほど有名なエピソードです。

今回は、そんな伊勢大輔の生涯から紫式部とのエピソードまでご紹介します。




大中臣輔親の娘として

伊勢大輔は大中臣輔親の娘として誕生しました。

もともと大中臣氏は祭祀をつかさどる貴族でしたが、伊勢大輔の祖父・大中臣能宣や父・輔親は歌人としても有名でした。その影響もあり、伊勢大輔は和歌に優れた女性として育ちます。

後世、中古三十六歌仙や女房三十六歌仙の一人になったことからも、伊勢大輔の歌才をうかがい知ることができます。

一条天皇の中宮・彰子に仕える

伊勢大輔百人一首

伊勢大輔は1007年に一条天皇の中宮・彰子に仕えます。このときの年齢は20歳前後だと考えられています。

彰子のもとには才能ある女房が揃っていて、『源氏物語』で知られている紫式部も先輩女房として仕えていました。

また、のちに和泉式部赤染衛門らも彰子に仕えることになります。

紫式部の代わりに八重桜を受け取る役目を担う

伊勢大輔が彰子に仕えてからまもなく、藤原氏の氏寺だった奈良の興福寺が朝廷に八重桜を献上します。

この八重桜は当初、紫式部が受け取る予定でした。ですが急遽、伊勢大輔が代わりに受け取ることになります。

八重桜を受け取った伊勢大輔は即興で以下の歌を詠みました。

「いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」

あまりの出来栄えに周囲の者は驚き、一気に彼女の評判は高まりました。彼女は自らの歌才によって華々しい宮仕生活をスタートさせることに成功します。

なお、この出来事は当時の人々の記憶に深く刻まれたようで、後年、後冷泉天皇の皇后・寛子も話題にし、それに対して伊勢大輔は返歌を送ったといいます。




伊勢大輔のその後は?

彰子のもとで歌才を発揮した伊勢大輔はその後、高階成順と婚姻します。

そして、康資王母や筑前乳母、源兼俊母を産みます。この3人の娘はいずれも歌才に優れていたといいます。

伊勢大輔はそれからも数多くの歌合に出詠。歌壇の中心的な人物として活躍しました。

1060年まで伊勢大輔の記録があることから、少なくともこの頃までは生きていたと考えられています。

しかし、彼女の明確な没年まではわかっていません。

参考文献

朝日日本歴史人物事典
朝日新聞社編。歴史上の人物1万1300人が紹介されている人物事典。神代から大正時代までが対象。有名な偉人から民衆の英雄、来日外国人まで、国籍と身分、そして時代を越えてありとあらゆる人物の“人生のプロフィール”が掲載されている。

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