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赤染衛門とは?歌才だけでなく、良き妻・良き母でもあった女流歌人の一生

赤染衛門(あかぞめえもん)は平安時代中期の女流歌人です。

清少納言や紫式部、和泉式部らと同時代の女性で、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人としても知られています。和泉式部と並び称されるほどの実力を持ち、その歌は現代にも伝わります。

今回は、そんな赤染衛門がどのような一生を送ったのか。歌才に優れた女性の生涯をご紹介します。




赤染時用の娘として誕生

赤染衛門は赤染時用(ときもち)の娘として950年代に生まれたとされています。

ですが、彼女の出生には当時からある疑惑が向けられました。それは、彼女の父親が平兼盛ではないかという噂です。

というのも、衛門の母親はもともと兼盛と婚姻していました。その母親が懐妊した時期を遡ると、時用と再婚する前、つまりちょうど兼盛と婚姻していた頃だと推測されたのです。

この疑惑はやがて裁判へと発展します。自分の子だと思った兼盛が、衛門の親権を時用と争ったのです。結果的に兼盛は敗訴し、衛門は時用の娘として正式に認められました。

大江匡衡との結婚

赤染衛門絵巻

時用の娘として育った衛門は、976年~978年の間に大江匡衡(まさひら)と結婚しました。

匡衡は大学寮(官僚育成機関)で中国史や漢文学などの歴史学を教える先生として働き、のちに名儒と評されるほど優秀な人物でした。この二人の仲は非常に良く、周囲から「匡衡衛門」と呼ばれるほどのおしどり夫婦として知られました。

しばらくして衛門と匡衡の間には、大江挙周(たかちか)らが生まれました。

藤原道長の妻とその娘に仕える

衛門はのちに、藤原道長の妻・源倫子と、その娘・藤原彰子に仕えます。

彰子は一条天皇の皇后で文芸サロンを構築していたことから、衛門は和泉式部や紫式部、伊勢大輔らと親交を持ったといいます。

なお、紫式部は『紫式部日記』で衛門の歌について好意的な感想を述べています。

良妻賢母としての赤染衛門

衛門は夫・匡衡の二度にわたる尾張国の赴任に同行します。そこで懸命に夫を支えたといわれています。

また、倫子に送った歌で道長の同情を誘い、息子・挙周の和泉守任官を成功させたとも。さらに挙周が和泉守任期中に重病に陥った際は、住吉神社に歌を奉納。病の完治を祈願しました。

衛門は歌人としてだけでなく、妻として、母としても優れた女性でした。これらの逸話から性格も比較的、温和だったのではないかと思えます。




赤染衛門のその後

1012年に匡衡が死去したあと衛門は出家。信仰に傾倒したといいます。

ただ、1035年に藤原頼通の歌合、1041年に藤原生子の歌合に出詠するなど、歌を創作していた形跡は見られます。

また、『栄華物語』正編の作者という説もあることから、後年は精力的に著作活動に取り組んでいたのかもしれません。

はっきりとした没年はわかっていませんが、少なくとも1041年以降に死去したと考えられています。

参考文献

朝日日本歴史人物事典
朝日新聞社編。歴史上の人物1万1300人が紹介されている人物事典。神代から大正時代までが対象。有名な偉人から民衆の英雄、来日外国人まで、国籍と身分、そして時代を越えてありとあらゆる人物の“人生のプロフィール”が掲載されている。

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