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和泉式部とは?数多くの恋愛を経験した女流歌人の一生

和泉式部は平安時代中期の女流歌人です。

中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人として知られ、同時代には赤染衛門や紫式部らがいます。

文芸サロンを築いた藤原彰子に仕えるなど、当時から歌才に優れた女性でしたが、恋愛遍歴も多く、紫式部には「歌に優れているが、素行は感心しない」と評されました。

今回はそんな和泉式部の一生に迫ります。




和泉式部の誕生から結婚まで

和泉式部は越前守・大江雅致の娘として970年代に生まれたといいます。母は冷泉天皇の皇后・昌子に仕えていた越中守・平保衡の娘とされています。

貴族の娘として順調に育った和泉式部は、のちに橘道貞と結婚。999年に道貞が和泉守に任じられると、これに同行します。その頃から「和泉式部」と呼ばれるようになりました。

また、この頃に小式部内侍を産みます。

橘道貞との離婚後、二人の親王と恋に落ちる

夫との間に小式部内侍を儲けるなど、順風満帆な生活を送っていたように見えた和泉式部でしたが、ほどなくして道貞と離婚。その後、冷泉天皇の皇子・為尊(ためたか)親王と恋に落ちます。このとき、身分違いの恋愛であるとして親から勘当されたといいます。

ところが、為尊親王は1002年に26歳で亡くなります。すると今度は、為尊親王の実弟であった敦道(あつみち)親王と恋に落ち、召人として邸宅に住みます。この処置に敦道親王の正妃が激怒。敦道親王と正妃はのちに離婚しました。

敦道親王と和泉式部の関係はその後も続き、1006年頃には男子を儲けます。しかし、1007年に敦道親王は薨去。為尊親王と同様、若くして亡くなってしまいました。

藤原彰子の女房となる

和泉式部絵画

愛する人を亡くした和泉式部は、翌年の1008年~1011年の間に一条天皇の中宮・藤原彰子の女房となります。

当時、彰子は歌才のある女性を集め、文芸サロンを構築していました。和泉式部もそのサロンのメンバーとして歌才を発揮していきます。この頃、和泉式部と同じく、彰子に仕えていた赤染衛門や紫式部、伊勢大輔(たいふ/おおすけ)らとも交流したといわれています。

それからしばらくして彰子の父・藤原道長に仕えていた藤原保昌と再婚。この結婚には道長のすすめがあったといわれています。

1015年、夫である保昌が丹後守に任じられると、一緒に丹後国に入りました。

和泉式部のその後

その後の和泉式部の動向は伝わっていません。

1025年に娘の小式部内侍が死去したときに哀愁の歌を残していることから、少なくとも1025年までは生きていたと考えられています。

丹後国に下ってからは夫・保昌とともに平穏な日々を送っていたのかもしれませんね。




和泉式部はどんな人物だった?当時の評価とは

和泉式部は当時から恋多き女性として注目されていました。

冒頭でも紹介しましたが、紫式部からは「素行は感心できない」と評されました。また、藤原道長からも「浮かれ女」といわれたことがあったそうです。

ただ、和歌に関する評価は高く、その率直さと大胆さを反映した歌は、歌人として有名だった藤原公任にも賞賛されたといいます。

参考文献

朝日日本歴史人物事典
朝日新聞社編。歴史上の人物1万1300人が紹介されている人物事典。神代から大正時代までが対象。有名な偉人から民衆の英雄、来日外国人まで、国籍と身分、そして時代を越えてありとあらゆる人物の“人生のプロフィール”が掲載されている。

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