梶原景時の変とは?なぜ66人の御家人から弾劾されたのか?その最期まで解説
源頼朝の側近として鎌倉幕府の成立を支えた梶原景時。しかし、頼朝が亡くなると、その立場は急速に悪化していきます。
1199年、三浦義村や和田義盛らを中心とする66人の御家人から弾劾を受けた景時は鎌倉を去り、翌1200年には駿河国で一族とともに最期を迎えました。
なぜ頼朝から厚く信頼されていた景時が、これほど多くの御家人から弾劾されたのでしょうか。
本記事では「梶原景時の変」が起きた経緯から、66人による弾劾、鎌倉退去、上洛、そして梶原一族の最期までを史料をもとにご紹介します。
梶原景時の変とは?
梶原景時の変とは、1199年(正治元年)から1200年(正治2年)にかけて起きた、梶原景時の失脚から梶原一族の滅亡までの一連の事件です。
梶原景時は源頼朝に重用された御家人でした。
頼朝挙兵時は、石橋山の合戦にて敵方として参陣していましたが、翌年の1181年(治承5年)に頼朝へ出仕すると、源平合戦では源義経や源範頼らとともに西国へ赴き、頼朝へ戦況を報告。鎌倉では侍所の所司を務め、1192年(建久3年)には和田義盛に代わって侍所の長官となりました。
『吾妻鏡』には、頼朝から受けた景時の寵愛は他の者を上回るほどだったという趣旨の記述もあります。
ところが、その頼朝が1199年1月に亡くなります。
同年10月から11月にかけて、景時は三浦義村や和田義盛らを中心とする66人の御家人から弾劾を受けました。
その後、景時は特別に弁明することなく鎌倉を去り、相模国一宮へ退去。そして翌1200年1月、息子たちを連れて一宮を出発したものの、駿河国で在地武士らと戦闘となり、一族とともに最期を迎えます。
頼朝の死から、わずか一年ほどの出来事でした。
なぜ頼朝の側近として幕府の中枢にいた景時が、これほど急速に失脚したのでしょうか。
梶原景時の変を考えるうえでは、事件の直接的なきっかけだけでなく、頼朝の死によって変化した鎌倉の政治状況と、景時が頼朝時代にどのような立場にいたのかを見る必要があります。
源頼朝の死後、鎌倉幕府の政治はどう変わった?
1199年1月、鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなりました。
その後を継いだのが、嫡男の源頼家です。
頼家は当時18歳。
若い鎌倉殿のもとで新たな政治が始まりますが、わずか数ヶ月後の4月には大きな変化が起こります。
『吾妻鏡』によると、それまで頼家が直接判断していた訴訟について、今後は頼家が直接裁決することを停止し、選ばれた御家人たちが取り次ぐことになりました。
このとき名前が挙げられたのが、
北条時政、北条義時、梶原景時、比企能員、三浦義澄、和田義盛、大江広元、三善康信、八田知家、安達盛長、足立遠元、中原親能、二階堂行政
の13人です。
後世、「十三人の合議制」と呼ばれる体制です。
この体制の運営方法には諸説ありますが、「13人が一つの会議体を作り、常に多数決などで幕府政治を決定していた」というわけではないようです。『吾妻鏡』に記されているのは、頼家への訴訟の取り次ぎを13人の宿老に限定したという内容のため、実際にどのように運営されていたかは正確にはわかっていません。
で、ここで重要なのは、景時もその13人の中に入っていたことです。
つまり、頼朝が亡くなったからといって、景時がすぐに幕府の中枢から排除されたわけではありません。むしろ頼家の代になっても、景時は鎌倉政権を支える有力御家人の一人として扱われていました。
その状況が大きく変わるのが、同年秋に起きた結城朝光をめぐる事件でした。
結城朝光の発言がきっかけから梶原景時の弾劾へ
『吾妻鏡』によれば、景時失脚の直接的なきっかけとなったのは、御家人・結城朝光の発言でした。
1199年10月25日、朝光は御所に出仕していた際、頼朝が亡くなったことを惜しみ、
「忠臣は二君に仕えず」
という中国の故事を引きながら、頼朝が亡くなったときに出家しておけばよかったという趣旨のことを語ったとされています。
頼朝への思いを語った言葉とも受け取れますが、二代目の鎌倉殿・頼家がすでに政権を担っている状況では、「二君に仕えない」という言葉は頼家への批判とも受け取ることができます。
『吾妻鏡』では、景時がこの発言を問題視し、朝光を処罰するよう頼家へ讒言したとされています。
この動きを朝光へ伝えたのが、北条時政の娘であった阿波局でした。
阿波局から知らされた朝光は驚き、三浦義村のもとを訪ねて相談します。
そして義村は和田義盛ら有力御家人へ働きかけました。
ここから事態は、結城朝光一人の問題ではなくなります。
景時に対して不満を抱いていた御家人たちが、景時そのものを鎌倉から排除しようと動き始めたのです。
なぜ66人もの御家人が梶原景時を弾劾した?
結城朝光から相談を受けた三浦義村らは、景時を弾劾するために動き始めました。
『吾妻鏡』によると、三浦義村や和田義盛らが中心となり、景時の非を訴える連判状を作成します。そこに署名した御家人は66人に達したとされています。
連判状は和田義盛から大江広元へ渡され、最終的に頼家へ提出されました。
では、なぜ一人の御家人を排斥するために、66人もの御家人がまとまったのでしょうか。
『吾妻鏡』は景時について、他人の短所を頼朝へ報告することが多く、それによって命を失ったり、職を失ったりした者が多かったという趣旨の評価を記しています。
実際、頼朝時代の景時は、他の御家人の動向を頼朝へ報告する立場としてたびたび史料に登場します。
1183年(寿永2年)には頼朝の命令を受けて、有力御家人だった上総広常を殺害したとされています。
1185年(元暦2年)には、平氏追討に参加していた源義経について、その言動を批判する報告を頼朝へ送っています。
また、侍所の所司、のちにはその長官として御家人の統率にも関わりました。
こうした景時の立場を考えると、他の御家人との間に緊張が生まれやすかったことは想像できます。
ただし、
「景時は性格が悪かったから66人から嫌われた」
と判断するのは間違いです。
景時がしていたことの中には、当然、頼朝の命令を受けて実行したものもあります。
上総広常の殺害は良い例です。
また、御家人の行動を頼朝へ報告することについても、頼朝を中心とする政権を維持するためには必要な役割だったと考えることができます。頼朝にとって有用だった景時の役割が、他の御家人にとっては警戒や反発の対象になった可能性があります。
頼朝が存命である間は、そのような景時を頼朝自身が重用していました。
しかし、その頼朝が亡くなったことで、景時と他の御家人との力関係は大きく変わりました。
66人による弾劾は、結城朝光の発言だけを原因とするのではなく、頼朝時代から蓄積していた景時への反発が表面化した出来事なのかもしれません。
梶原景時はなぜ反論せず鎌倉を去った?
66人の連判状を受け取った頼家は、景時にこれを示し、申し開きがあればするよう求めました。
ところが、『吾妻鏡』によると、景時は弁明しませんでした。
景時はそのまま自邸へ戻り、ほどなく鎌倉を離れます。
一般には、この出来事は「梶原景時が鎌倉を追放された」と説明されます。
ただ、『吾妻鏡』の経過を見ると、頼家がその場で景時に流罪などの処分を言い渡したという内容はありません。景時は弾劾状に対して反論せず、鎌倉の屋敷を引き払い、相模国一宮へ退いただけです。
では、なぜ景時は弁明しなかったのでしょうか。
これは梶原景時の変における大きな謎の一つです。
景時自身が理由を語った史料は確認されていないため、正確な理由はわかりません。
66人もの御家人が自分の排斥に同意している以上、鎌倉にとどまって政治的に対抗することは難しいと判断した可能性はあります。
また、二代目の頼家は景時を重用していた形跡がある一方で、この弾劾において景時を積極的に庇護し、66人の御家人を押さえ込むことはしませんでした。
このような状況が景時を「鎌倉退去」という行動に促したのかもしれません。
確実に言えるのは、66人による弾劾に対して景時が十分な反論を行なわず、鎌倉を離れたと『吾妻鏡』が伝えていることです。
梶原景時はなぜ京都を目指したのか?
鎌倉を離れた景時は、相模国一宮に移りました。
現在の神奈川県寒川町周辺です。
しばらく一宮に滞在していた景時ですが、1200年(正治2年)1月20日の未明、息子たちを伴って一宮を出発しました。
『吾妻鏡』には、景時が謀反を企てて上洛しようとしているとの情報が鎌倉へ伝えられたとあります。
これを受けて北条時政、大江広元、三善康信らが協議し、三浦義村、比企能員、糟屋有季、工藤行光らが追討のため派遣されました。
では、景時はなぜ京都へ向かおうとしたのでしょうか。
単純に「鎌倉を追放されたので京都へ逃げようとした」と考えることもできますが、『吾妻鏡』には事件後、さらに気になる記述が現れます。
景時が滅亡した後の1月28日、甲斐源氏の武田信光が鎌倉へやってきました。信光の報告によれば、兄の武田有義と景時の間には密約があり、有義を「大将軍」として擁立する計画があったとされます。
さらに別の記事では、景時が上洛したうえで西国の武士を集めようとしていたという話も記されています。
これらをそのまま信用すれば、景時は単なる逃亡ではなく、京都を拠点として再起を図ろうとしていたことになります。
しかし、注意しなければならないのは、これらの情報が景時自身の言葉として残されているわけではないことです。
武田有義を擁立する計画についても、景時が死亡した後に『吾妻鏡』へ記された情報です。
そのため、
「景時は武田有義を新たな将軍として鎌倉幕府を倒そうとしていた」
ということを事実として扱うことには慎重であるべきでしょう。
景時が上洛を目指して一宮を出たことは『吾妻鏡』から確認できますが、その最終的な目的については、史料の性格も考慮する必要があります。
梶原景時の最期
1200年1月20日、相模国一宮を出発した景時一族は東海道を西へ進み、同日の夜には駿河国清見関付近へ到達しました。
現在の静岡市清水区周辺です。
ところが、ここで景時一族は在地の武士たちと遭遇します。
『吾妻鏡』によると、近隣の武士たちが射的のため集まっており、帰ろうとしていたところで景時一族と出会いました。不審に思った武士たちが矢を射かけたことで戦闘が始まったとされています。
景時一族は狐崎付近で戦いました。
この戦いで、景時の息子である景茂、景国、景宗、景則、景連らが次々と討たれます。
景時は嫡男の景季、次男の景高とともに山へ退きましたが、三人も最期を迎えました。
翌日、山中から景時、景季、景高らの首が発見され、一族33人の首が路上に懸けられたと『吾妻鏡』は伝えています。
頼朝の側近として鎌倉幕府の成立を支えた景時は、こうして駿河国で生涯を終えました。
石橋山の戦いで頼朝を救ったとされる1180年から約20年。
頼朝の死からは、わずか一年ほど後のことでした。
ただし、梶原氏の血統そのものが、このとき完全に途絶えたわけではありません。
梶原景時の変の後、鎌倉では御家人の争いが続く
梶原景時の変は、頼朝死後に起きた有力御家人の失脚として最初期の大きな事件でした。
しかし、景時の滅亡によって鎌倉の政争が終わったわけではありません。
1203年(建仁3年)には、二代将軍・頼家の外戚として大きな勢力を持っていた比企能員が北条時政によって討たれ、比企氏の主要勢力が滅ぼされました。
1205年(元久2年)には、武蔵国の有力御家人だった畠山重忠が北条時政らによって討たれます。
さらに1213年(建暦3年)の和田合戦では、侍所別当を務めた和田義盛が北条義時と戦い、敗死しました。
景時を弾劾した側だった和田義盛も、十数年後には幕府内部の争いによって滅亡したことになります。
こうして頼朝の時代から幕府を支えてきた有力御家人が次々と政治の表舞台から姿を消し、その一方で北条氏の政治的な地位は次第に強くなっていきました。
梶原景時の変も、こうした頼朝死後の鎌倉で続く権力争いの中に位置づけると、その意味が見えやすくなります。
梶原景時の変はなぜ起きたのか?
では、梶原景時の変はなぜ起きたのでしょうか。
直接的なきっかけとなったのは、『吾妻鏡』の記述に従えば結城朝光の発言です。
景時が朝光の発言を問題視したことから、朝光が三浦義村へ相談し、66人の御家人による弾劾へと発展しました。
しかし、これだけでは説明できない問題があります。
なぜ、一人の御家人の発言をめぐる問題から、66人もの御家人が景時排斥でまとまることができたのでしょうか。
その背景の一つとして考えられるのが、景時が頼朝のもとで担っていた役割です。
繰り返しになりますが、景時は頼朝へ他の御家人の動向を報告し、時には頼朝の厳しい命令を実行する役割を担っていました。
その役割は、頼朝から厚い信頼を受ける一方で、他の御家人との間に反発を生みやすいものであったと考えられます。
そして1199年、景時を重用してきた頼朝が亡くなりました。これが、景時を取り巻く政治的な環境を大きく変えることになったといえます。
頼朝の存命中であれば、他の御家人が景時に不満を抱いていたとしても、景時の背後には鎌倉殿である頼朝がいました。
しかし頼朝の死後、その関係は失われます。
こうした状況の中で結城朝光をめぐる問題が起こり、景時への不満が一気に表面化したと考えることができます。
つまり、梶原景時の変は、
「結城朝光の発言が直接的なきっかけとなり、景時と他の御家人との間にあった緊張関係を背景として、頼朝の死と頼家への代替わりによる政治環境の変化の中で発生した事件」
と捉えることができそうです。
頼朝の側近として景時が担ってきた役割と、その頼朝を失ったこと。
そこに、梶原景時の変を考える重要な手がかりがあります。
まとめ
梶原景時は非常に有能な人間だったとされています。そのため頼朝も、御家人の中でもとりわけ彼を重宝したのだと思います。
しかし、景時が担った役割は他の御家人から非難されたり、反発を受けたりするようなものでした。それが、梶原景時の変につながったのだと考えられます。
いずれにしても、敵対する相手を殺してしまうという物騒な時代だと思う今です。
参考文献
鎌倉御家人梶原景時の立場
歴史学者・伊藤一美氏が執筆。源頼朝に仕えた御家人・梶原景時について、鎌倉政権の中でどのような立場にあったのかを考察した論文。後世には源義経を陥れた「讒言の人物」として語られることの多い景時だが、本稿では御家人としての立場や頼朝との関係などからその実像に迫る。景時がなぜ頼朝から重用されたのか、また頼朝政権においてどのような役割を担っていたのかを考えるうえで参考となる。
中世文学を通してみる梶原景時―京の文化と東国武士を視点として―
田中徳定氏が執筆。『平家物語』『義経記』などの中世文学に描かれた梶原景時について、京の文化と東国武士という視点から考察した論文。後世に景時が奸佞な人物として描かれるようになった過程だけでなく、和歌などにも通じた景時の文化的・教養的な側面にも注目している。「義経を陥れた悪人」というイメージだけでは捉えきれない梶原景時の人物像を考えるうえで参考となる。
梶原景時と『六十六部縁起』―「取り成し」をする景時像の背景―
香取千晴氏が執筆。後世の説話に描かれた梶原景時の人物像について考察した論文。『六十六部縁起』にみえる景時の「取り成し」に注目し、『平家物語』などに描かれた景時像との関係を検討している。源義経と対立した悪役として知られる景時が、中世から近世にかけてどのように語られ、異なる人物像を与えられていったのかを知る手がかりとなる。