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平重衡とは?武勇・教養に優れ、南都焼き討ちで名を残した平家武士の一生

武家だった平氏には武勇に優れた人物が多数いました。

一方で、栄華を極め貴族的な生活を送るうちに、歌に優れたり、深い教養を身に着けたりする人物もいました。

今回ご紹介する平重衡は、その両方を備えていた人物だったといわれています。

『平家物語』でも多数取り上げられている重衡。

いったいどのような人物だったのでしょうか。その生涯に迫ります。

平氏の公達として誕生

重衡は1157年、平清盛の五男として生まれました。母は平時子です。同母兄弟には平宗盛、平知盛、平徳子らがいます。

当時、平氏は清盛の活躍もあり、徐々に家名を高めていたときでした。

極めつけは1160年に起きた平治の乱です。

この合戦で清盛は勝者となり、これ以降、平氏一門のなかから官位に就く者が続出。重衡もそれに漏れず1162年、6歳のときに従五位下に叙されます。

また、その翌年には尾張守、1166年には従五位上、左馬頭と出世を遂げ、最終的には正三位、左近衛権中将に昇ります。

重衡は平氏の公達として、順調に昇進していきました。

以仁王の挙兵

平重衡肖像画

源平合戦人物伝より引用(「平重衡像」安福寺蔵)

平氏が権勢を奮っていた1179年、清盛と後白河法皇の対立が激化します。

清盛は11月に後白河法皇を幽閉。院政を停止します。この際、重衡は後白河法皇に奏上をおこなう使者となりました。

さらにその翌年の1180年5月に以仁王が挙兵すると、これの鎮圧を命じられます。以仁王の挙兵は、重衡や平維盛などの働きがあり、ほどなくして収束します。

しかし、この挙兵に応じて園城寺や興福寺といった寺社勢力の蜂起も促されます。重衡は、1180年12月に知盛や維盛とともに園城寺を攻撃。見事、鎮圧することに成功しました。

南都焼き討ち

園城寺を制圧したあと、重衡は大軍を率いて興福寺(南都)に向かいます。興福寺側もこれを迎え撃つため、各所にバリケードを設置します。

ところが、重衡はこのバリゲートを大軍でもって突破。興福寺に迫ります。そして、放火によって興福寺や東大寺を焼いてしまいました。この火事によって多数の僧侶も焼死。重衡はこの一件以降、南都の衆徒からかなり恨まれたといわれています。

なお、伽藍や堂塔まで焼いたこの南都焼き討ちに関しては、重衡の予想を上回るものだった、計画的なものだった、という二つの説があります。

平氏武士団の中心的な存在として活躍

1181年3月、平氏は源氏を討伐するため、重衡を大将軍の一人にして東国に派遣します。重衡は4月に源行家、源義円を相手に墨俣川で戦います。この墨俣川の戦いは平氏の勝利に終わりました。

しかし1183年7月、源義仲が京に迫ると平氏は都を捨て西に逃れることを決めます。平氏一門の都落ちです。重衡もこれに同行します。

その後、平氏は最終的に屋島に拠点を置き、上洛の機会をうかがうことになります。

同年10月、平氏追討のため、京から義仲の軍勢が派遣されます。平氏はこれに対抗するため、知盛を筆頭に平教経平通盛らを水島に出陣させます。重衡も中心戦力として派遣されます。水島の戦いは終始、平氏が戦いを有利に進め勝利。義仲軍を撃退します。

また、同年11月には知盛とともに室山で行家を撃破。平氏は福原まで勢力を回復することに成功します。

その翌年の1184年2月、今度は義仲を討伐した源義経と源範頼が平氏追討のため、西に派遣されます。源氏側は義経軍と範頼軍の二つに軍を分けます。

これに対して平氏は福原周辺に防御陣を構え、迎撃する体制を整えます。重衡は知盛とともに、範頼軍が攻めてくる生田口を任されます。

重衡は範頼軍と懸命に戦いますが、福原に近い夢野口が源氏軍に突破されると、平氏軍は全軍総崩れとなります。船に逃れようと退却する平氏軍。重衡も退却します。

しかし、馬を射られたことで退却が遅れ、源氏軍に捕まってしまいました。

捕縛されたあとの平重衡

一ノ谷の戦いで捕まった重衡は京に送られます。

後白河法皇は、平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器と重衡の交換を平氏側に提示します。しかし、平氏側はこれを却下。これにより、重衡が平氏陣営に帰還できる機会はなくなります。

1184年3月、重衡は鎌倉に移送されます。鎌倉で頼朝と対面した重衡は、以下の言葉を述べたといいます。

朝敵を何度も平らげ、朝廷のために働いた平家がこのようなことになることは理解できないが、しかし、それが運命であるならいたしかたない。武士であるから敵の手にかかって命を落とすことは恥ではない。情けがあるなら、一刻も早く我が首を刎ねてほしい
引用:源平合戦人物伝より

重衡のこの発言に感服した頼朝は、狩野宗茂にその身を預けます。宗茂は丁重に重衡をもてなします。重衡のその待遇はとても囚われた人のものではありませんでした。

さらに頼朝は重衡を慰めるために、北条政子の侍女・千手を側近くに仕えさせます。また、重衡のために宴を催したともいわれています。重衡はこの宴で朗詠を吟じ、教養の深さを示したとされています。

平重衡の最期

1185年3月、平氏軍が壇ノ浦の戦いで源氏軍に敗北。平氏一門は入水し滅亡しました。

そして同年6月、重衡はかつて焼き討ちした興福寺や東大寺の衆徒の強い要求によって、南都に引き渡されることになります。

鎌倉を発った重衡は、日野(現在の京都市伏見区)を通った際、壇ノ浦で生き残り、姉のところに隠棲していた妻・藤原輔子と再会します。重衡は輔子に形見として、髪とそれまで着ていた衣服を渡したといいます。

その後、重衡は木津川まで送られ、斬首されました。1185年7月のことでした。享年は29と伝わります。

なお、重衡は斬首される前に法然と面会し、受戒を受けたとされています。

平重衡の性格をあらわす逸話

『建礼門院右京大夫集』と『平家公達草紙』によると、重衡はとても心遣いができる人物だったといわれています。

高倉天皇が退屈していたときに泥棒の真似事をして笑わせたり、いつも冗談を口にしたりしていたそうです。

一方で朝廷の女房を怖がらせたりするなど、お茶目な部分もあったといわれています。

これらの逸話から重衡の性格、魅力的な人物像をうかがい知ることができます。

また、容姿に関しては「なまめかしくきよらか」と伝えられています。

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